その3、黒柳徹子は「疲れ」を知らない
黒柳は若い頃、3度見合いをしたが、結婚しなかった相手がテレビで自分を見て「こいつ、俺が見合いした相手だ」などと言われると嫌だなと思い、やめてしまった。その後も、一緒に仕事をしていた人からプロポーズされたこともあるし、経験自体は多くはないが、素敵な恋愛もあったという。
しかし、いずれも結婚する決心まではつかなかった。《でも、結婚しないできたから「徹子の部屋」も四十年つづいたし、舞台の仕事もユニセフの親善大使もできたのだと思います》と本人は振り返る(『文藝春秋』2016年1月号)。
ユニセフ(国連児童基金)の親善大使として、世界に大勢いる戦災や飢餓などの危機に瀕した子供たちのために活動を始めたのは1984年。前後して1979年には、アメリカのろう者劇団「ナショナル・シアター・オブ・ザ・デフ」を日本に招き、彼女自ら英語の手話を日本語の手話に訳して上演を実現させた。これを契機に日本でもろう者の人たちによって「東京ろう演劇サークル」が結成される。
同劇団はその後、黒柳が『窓ぎわのトットちゃん』の印税をもとに設立した「トット基金」の付帯劇団となり、「日本ろう者劇団」と改称し、現在も手話狂言や創作劇などを各地で上演し続けている。この劇団に所属するろう俳優である江副悟史や五十嵐由美子は、昨年から今年にかけて話題を呼んだドラマ『silent』や『星降る夜に』にも出演した。
時には、危険な場所に行くことも
ユニセフの活動では、地雷原など「民間人」が近づけないような場所にも赴く。一方で、自分が俳優として色褪せたら、親善大使として人々に協力してもらえなくなるので、本業もおろそかにできない(『徹子の部屋』が始まってからはテレビドラマには出演せず、俳優の仕事は舞台に絞ってきた)。それでも、すべてやりたくてやっていることだから続けられるのだという。その発端には、30代の前半に一度過労で倒れたとき、医者から言われた「元気に働きたければ、自ら進んでやりたいと思う仕事だけしなさい」とのアドバイスがあった。
いまから30年前に『週刊文春』の対談ページに黒柳が登場したとき、聞き手の阿川佐和子が彼女の多忙ぶりに驚いて「ああ、疲れたなとか、仕事が嫌になっちゃったなってことはないんですか」と訊ねた。これに対し黒柳は《あのね、疲れたってこと、私あんまり分かんないの(笑)》と言ってのけ、《みんなよく「疲れた」って言うでしょ。(中略)私、一度も言ったことないの。だから、ホントに疲れないんだと思うの。友達に「疲れたってどういうの?」って聞いたら、みんな「口ききたくない」って(笑)》とあっけらかんと語った(『週刊文春』1993年9月23日号)。
別のところでは、《ユニセフの活動も、ろう者の劇団の活動も、「ボランティアをしなければ」という気負いがあって始めたわけではありません。ちょっと面白そうだなと、興味を抱いて飛び込んでいっただけ。それが結果的に人のためになると、「あぁ、よかった」と思います》とも語っている(『婦人公論』2019年5月14日号)。