大切な記憶がフラッシュバックしたのか
「SATO 8」のタテジマユニフォームを着て、メガネをかけたその男性は、やかましい店内でボソボソとしゃべりはじめた。かなり聞き取りにくかったがその内容は、現在75歳で江夏豊と同い年であること、神戸出身で学友が園田中で江夏と一緒に野球をやっていたこと、法政大学からドラフト1位で入って来た田淵幸一との「黄金バッテリー」が印象に残っていることなどだった。たぶん。
ひとしきり話して男性は自席へと戻っていったのだが、ふと見ると涙をこぼしているではないか。なんとも表現しがたい衝撃を受けた。
大昔にタイガースで活躍した選手のユニフォームを着ている人がいた。ただそれだけのことだ。モノ自体は梅田の阪神百貨店で売られていたもので、珍しくもなんともない(あまり着ている人はいないかもしれないが)。
私より18歳上のその男性の脳裏には、田淵幸一のどんなシーンがフラッシュバックしたのだろう。大好きな江夏がジャイアンツに完封勝利したとき、満面の笑みで駆け寄ってきたところだろうか。サヨナラホームランを打って、乱入したファンのおっさんと一緒にホームインしたところだろうか。
読売に入団するものだと思っていた東京っ子が、蓋を開けてみれば阪神が指名し、当初はふてくされていたという。しかし、いざ入団するとホームラン22本を打ち新人王を獲得する大活躍。男性もきっと心を掴まれたのだと思う。
どうか2023シーズンが感涙の源になるように
「懐古ユニフォーム」を着ていて、声をかけられることはしょっちゅうだが、感極まって涙されたのは初めてだった。こういう時期なので、ちょっと繊細になっていたのかもしれない。
その居酒屋のフロアには20歳代から70歳代の阪神ファンが、それぞれのテーブルで現在のタイガースを語っていた。ナイターで行われた広島対ヤクルトの戦況をスマホで確認しながら妙な一体感も生まれていた。
帰るときには、若い人たちから「じゃあ、田淵さん、また!」と声をかけられた。75歳の男性とも握手をして別れた。
自分がもし75歳まで生きていて、そのときに「OKADA 16」とか、「TORITANI 1」とか「FUJINAMI 19」といったユニフォームを見たら、ひょっとしたら彼らの入団が決まったときの喜びや、チームで活躍してくれたときの感激がよみがえり、涙が出るかもしれない。
どうか、この2023年シーズンにアレが現実となるように。できることならその後の試合でも勝ち上がって、唯一1985年だけ達成した「アレ中のアレ」が実現するように。多くの阪神ファンが老年になったあとも思い出し涙するような、そんな年になるように。そう思いながら店を出た。
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