かつてインドで暮らしていたとき、戸惑った出来事があった。駅の階段を大きな荷物を持って上がっていると、傍にいた男性がいっしょに持ってくれた。私はその親切に感謝し、「ありがとうございます」と丁寧に礼を言った。本当に助かったので、重ねて礼を言ったところ、男性はむっとした顔をして「もういい」と言い、憮然とした表情で立ち去った。なぜ、彼は怒ったのだろうか。
本書には、私の体験と共通するエピソードが出てくる。『エスキモーの本』を書いたピーター・フロイヘンは、セイウチ猟がうまくいかず帰ってきたとき、猟に成功したエスキモーの狩人から肉をもらった。フロイヘンがいくども礼を言うと、男は憮然としてこう言った。「この国では、われわれは人間である」「そして人間だから、われわれは助け合うのだ。それに対して礼をいわれるのは好まない」。
平川は、このエピソードに交換経済とは異なる贈与経済の本質を見る。負債を意識し、貸借関係が生まれると、奴隷をつくることになる。だから、肉をもらったことに対する直接的な返礼は必要ない。その負債は、別の人に対する贈与として返済すればよい。
平川はマルセル・モースの『贈与論』などを参照しながら、贈与関係によって成りたつ経済システムを「全体給付システム」と位置づける。これは市場原理という交換経済に先行して成立し、現在社会にも残存している。「贈与の受領と再贈与の義務」という有機的連関は、人間社会の古層を形成し、根源的な倫理を構成する。「モラルというのは、負債を等価交換とは別の仕方で、返済しなければならないという感覚から生まれてくる」。
人は子供に対して、様々なものを分け与え続ける。代償は求めない。贈与と相互扶助が無意識の状態で行われているからこそ、社会は維持され続けている。
平川は贈与経済の重要性を説くが、一方で交換経済としてのマーケットを否定しない。両者が並立しながら、平衡を保つ関係性を構想する。
ここで参照されるのが戦後すぐに発表された花田清輝の「楕円幻想」という文章である。楕円は二つの中心を持ち、相反する二項が、反発しあいながら必要としている状態を表す。人は一つの中心をもつ完全な円を求めがちだが、その純粋社会は危ない。
「楕円幻想」によって成り立つ社会は、すっきりしない。その分、矛盾する諸価値の間で葛藤しながらバランスを保つ平衡感覚を必要とする。平川はそこに存在する「うしろめたさ」や「ためらい」といった引き裂かれた心持を抱きしめる。
暖かく成熟した平川経済学の集大成。