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教師になろうと大学に進学したが……

 砂央里(仮名、20)は、震災当時は中1。卒業式が終わった後、海の近くの自宅に戻っていた。そこで経験したことのない地震があり、津波警報が鳴り響いた。そのとき仕事中のはずだった父親が車で帰宅。砂央里のほか、母と祖母を乗せて、内陸部の高い建物に避難した。津波は見えなかったという。その後、複数の友人が亡くなった、と聞く。

 震災を経験したこともあり、砂央里は教師になろうと思い、大学へ行く。しかし、両親は大学進学に反対した。仕送りはなし。奨学金は「自分の借金になるから」ともらってない。当初はアルバイトを何件も掛けもちしたが、体がついていかず、時給のよいキャバクラに行き着いた。

「最初は大変でしたが、もう慣れました。人の話を聞くのは好きですので、この仕事も向いていると思います。大学を卒業したら教師になろうとも思っていた時期もありますが、この仕事一本でやっていこうと思っています」

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 生活費も授業料も自分で稼ぎ、支払っている。おそらく両親は夜の仕事をさせるために仕送りなしにしたわけではなく、大学進学を諦めさせるつもりだったのではないか。

「しつけのつもりだったのでしょうかね。でも、結果として夜の道を選んでしまいました」

木のボートで孤立した避難所から脱出

  多英(仮名、19)は震災当時小6。地震が起きて、津波警報が鳴ったために、近くの小学校へ避難した。2階近くまで津波が押し寄せた。津波は「ドブの色」だった。とっさに、「え? まじ? くさっ!」とつぶやいたという。 

 家族で同じ場所に避難できた。孤立すると思いきや、「木のボート」でやってきた男性がおり、その「ボート」に避難者を乗せていた。多英も乗せてもらい、津波被害がない場所まで家族一緒に行き、親類の家で数日間、過ごすことになった。友人や親族で亡くなった人はいない。 

写真はイメージです ©文藝春秋

 その後、中学、高校と進学する。高校2年のときだった。授業についていけない中で、あまり学校に行っていない友人からバイトを紹介された。それがキャバクラだった。でも、夜の時間帯であり、高校生ができるバイトではない。 

「一度行って、出勤しなかったんです。すると、友人が『なんで来ないの? 私、行ってるよ』と言われて、また誘われたんですが、最初は行かないでいたんですけど……」 

 学校に行けなくなり、1週間ほど経って、教室に行くと、机と椅子がなかった。むしろ、「なんで来たの?」と言われた。それで吹っ切れて、高校を辞めた。そして、夜の道を選択した。 

「ただ、最初は高校生の年代でもあり、地元ではなく、系列の別の店で働いていました。顔バレを避けるためですね。18歳過ぎてから、地元で働いています。将来、何をしたいのかは、わからないです。わからないから、ここで働いているのかも」 

「東京へ行きたいんです」

 菜美(仮名、20)は震災があったとき中2だった。3年生の卒業式が終わり、一旦自宅に帰り、遊びに出かけようと、外に出た。すると地震が起きた。しばらくすると津波警報が聞こえたという。自宅は高台にあるため、再度自宅に戻った。自分の部屋から津波が見えたという。 

「あれが津波なのか?って感じでした」 

 しばらくすると、同じクラスの子を含めて、同級生が複数人亡くなった話を聞いた。その中には、当時、一番仲の良かった子が含まれていた。 

「終業式に顔を見せなかったので、おかしいなとは思っていたんです。でも、他の人たちは遺体となって発見されたんですが、その子はなかなか発見されなくて……」 

 行方不明の時期が長かった理由がはっきりしたのはしばらくしてからだ。というのも、津波に浸かっていた時間が長かったのか、顔が膨れて、一見して誰かわからない状態だったという。葬儀もなかなかできなかった。 

©iStock.com

 震災を経験したことと、今、キャバクラで働いていることは結びついているわけではない。ただ、好きなネイルができる仕事として選んだ。最近では、やりたいことが見つかったという。 

「東京へ行きたいんです。そして、メイドカフェで働きたい。ネイルもできるし、夜、働かなくてもいいですから。やっぱり、夜はきついです」