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 たしかに身体は苦しかった。でも、苦しいことを苦しいと言える、痛いなら痛いと素直に言える。それが僕らにはうれしかったのです。そして、ふたりで笑いあえたのは、母の明るさがあったからこそだったと僕は感じています。

 もちろん、父と姉も力になってくれました。ふたりはともに鹿児島に住んでいますが、毎週代わる代わる見舞いに来てくれました。父は言葉は少なかったけれど、折に触れて僕を精神的に支えてくれた。病院の下でキャッチボールしたことも忘れられません。

 当時、鹿児島のテレビ局に勤務していた姉も、母が仕事をやめるにあたって引き継ぎ業務で離れられなかったときや、看病疲れから風邪をひいたときには、母の代わりにずっと僕につきそってくれました。

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 そんな家族がいたからこそ、僕は前を向くことができたのだと、あらためて思うのです。

僕にはもう一度プレーする義務がある

 そしてファンの人たち。

「いつまでも待ってます」

「戻ってくるのを楽しみにしています」

 入院中、そうした手紙をたくさんいただきました。そのひとつひとつが病気と闘う僕の力になってくれました。

 なかには毎日のように電話をかけてくれる人もいました。僕がプロに入ってからずっと応援してくださった鹿児島の徳永さんは、仕事終わりの午後5時50分、欠かさず励ましの電話をくれるのです。

「みんなが待ってる! 自分を信じて、前を向いてがんばりなさい」

 その電話一本にずいぶんと救われました。

 こうしたファンの方々の激励や応援を大変ありがたく感じると同時に、僕はこう思うようになりました。

「世の中には、僕と同じように苦しんでいる人がたくさんいる。病気でなくても、つらい目に遭っている人、理不尽な環境に置かれている人、悩んでいる人がたくさんいるはずだ。なかには絶望しかけている人もいるかもしれない。僕がプロ野球の世界に戻ることができたなら、そういう人たちに闘う勇気や元気を与えることができるのではないか――」

「グラウンドに復帰する」という目標はそれまで、あくまでも自分のためでした。でも、いつしかそれは、僕だけのための目標ではなくなった。もう一度、甲子園という大舞台で全力疾走し、フルスイングを見せることで、病気やさまざまなことで苦しんでいる人たちに夢と感動を与えたい、少しでも前を向く力を与えたいと思うようになったのです。

「そのためにも――」

 病院を後にするとき、僕は自分自身に言い聞かせました。

「もう一度、試合に出てプレーしたい。いや、僕にはプレーする義務がある!」