18年ぶりのセ・リーグ制覇を果たした阪神タイガース。岡田彰布監督はなぜシーズン中、決して「優勝」の2文字を口に出さず「アレ」と言い続けたのだろうか。阪神タイガースと、岡田監督時代のオリックスバファローズでも番記者を務めた喜瀬雅則氏の『阪神タイガースはなんで優勝でけへんのや』(光文社)より一部抜粋。

「アレ」が生まれた理由は……。(全2回の1回目/続きを読む)

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「アレ」が生まれたのは2010年オリックス監督時代だった!

 インターネットの検索ワードに「2010年」と入れてみる。アメリカの大統領はバラク・オバマで、日本は民主党政権だった。大相撲では、横綱・朝青龍が場所中に泥酔、知人の一般男性を暴行したことが明らかになり、横綱審議委員会から「引退勧告」を受けると、朝青龍は角界を去った。

 冬季五輪がカナダ・バンクーバーで行われ、フィギュアスケートの女子シングルで、浅田真央が銀メダルに輝いている。

 プロ野球界は、セ・リーグ優勝が中日。パ・リーグは3位の千葉ロッテがクライマックス・シリーズを勝ち抜き、日本シリーズでも中日を下して「下克上」の日本一を達成した。どれもなんだか、ついこの前のことのように思える。

 そう言い出したら、人間、年を取った証拠だとよくいわれるものだが、こうした「歴史の1ページ」を開いてみただけで、時の流れの早さを身に染みて感じるものだ。

 その年、セ・パ交流戦で「優勝」したのが、岡田彰布が監督1年目のオリックスだった。「アレ」はなぜ誕生したのか?岡田が監督に就任する直前までの10年間で、最下位5度を含むBクラス9度。まるで勝ち方を忘れていたかのようなオリックスに、岡田は新たな風を吹き込んだ。

 まず、平野佳寿をリリーフに回し、交流戦前には岸田護もストッパーに転向させた。先発でもローテーションの軸になれる2人でブルペンを強化し、打線も当時22歳のT―岡田を「4番」に据えると、交流戦の始まる5月頃から、投打がうまくかみ合い出した。借金「6」で突入した交流戦は、巻き返しのための絶好の機会だった。