中森明菜が表舞台から姿を消して5年あまりが経つ。デビュー40周年を迎えた昨年、ついに長い沈黙を破り、公式サイトにて「何がみんなにとっての正義なんだろう?」とファンに語りかけた。歌手人生のあらたな扉を開こうとする彼女は、いま何を思うのか。
ここでは、ノンフィクション作家・西﨑伸彦氏による『中森明菜 消えた歌姫』(文藝春秋)を一部抜粋して紹介する。日本の芸能史に残る「金屏風会見」の真相とは――。(全2回の1回目/続きを読む)
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父親が語った「マッチとの関係」
研音は当初から、明菜と近藤の交際については目くじらを立てることもなく、黙って見守っている状態で、ジャニーズ事務所もまた、当初は黙認していた。半ば事務所公認の仲で、明菜も、交際中の近藤を何度も清瀬の実家に連れて行き、家族にも会わせていたという。
明菜の父、明男が語る。
「マッチは何回も家に来たことがありますよ。2人で車に乗って来て、離れた場所にある駐車場に停め、そこに明菜の兄が車で迎えに行くんです。私は明菜がマッチと結婚するのかと思っていたのに」
しかし、明菜と家族との関係に溝ができるようになると、いつしか実家からも足が遠のいた。その頃、明男が経営していた中華料理店に研音の社長の花見が姿を見せ、「会社の役員に入ってくれませんか」と口にすることがあったという。
「もちろん私は『そんな器じゃないです。勘弁して下さいよ』と断わりました。明菜は私たちが、自分のお金を使い込んだかのように思っていますが、誤解されるようなことは何もないです。私も明菜のコンサートには2回ほど行きましたし、82年秋の渋谷公会堂でのコンサートには家内の両親も招待してくれましたが、それ以上に特別扱いして貰った訳ではありません。おカネをせびったことも一度もないですから」
事務所を失い、家族とも距離が
明菜の自殺未遂の後、家族は彼女の病室に駆け付けた。しかし、家族の口から研音の立場を気遣うような発言を聞き、明菜の心はさらに家族から離れていった。明菜が最も信頼していたはずの母親とも、時に涙を流して抱き合っていたかと思えば、突き放したような物言いで遠ざけることもあり、周りからは窺い知れない複雑な感情が入り混じっているように映った。
そして所属事務所を失い、家族とも距離ができた彼女を芸能界に復帰させる動きが水面下で始まっていた。
それを誰よりも望んでいたのは、彼女の自殺未遂の煽りを食った近藤であり、ジャニーズ事務所だった。ジャニーズ事務所に近い関係者が明かす。