「明菜は近藤との約5年の交際期間の間、89年の自殺未遂の前にも睡眠薬を飲んだり、カミソリを持ち出したりして自殺を図ったことが複数回あったと聞いています。帰りの遅い近藤を玄関で待って、そのまま寝落ちしてしまうような一途なところがあって、ちょっとした諍いが原因だったようです。
ただ、それは彼女が絶頂期を迎えていた85年頃から始まっています。彼女にはまた自殺を図ってしまう恐れもあった。いつまでもマスコミに追われて逃げ続けている訳にもいかないし、お詫びの会見をやって線を引き、再起を期すためには、まず所属事務所を整える必要がありました」
事態の収拾に動いたメリー喜多川
メリーから事態の収拾を頼まれた小杉(※)は、かつてRVC時代に宣伝にいた中山益孝に白羽の矢を立てた。
※小杉理宇造:近藤の初期のヒット曲を手掛けたRVCレコードの元担当ディレクター
中山は原宿のショップで働いていたところを小杉から誘われてRVCの宣伝マンとして入社した。小杉が代表を務める音楽プロダクションでも働き、弟分的な存在だった。ただ、マネジメント経験が豊富だった訳ではない。
新事務所は「コレクション」と名付けられ、社長には中山が就いた。取締役には明菜やワーナーの山本徳源社長も名を連ね、資本金3000万円の大半はワーナーが用立てた。
明菜は小杉のサポートを期待していたが、小杉は役員には入らなかった。その後ろに控えていたメリーは、あくまでもジャニーズ事務所の副社長として、窮地に追い込まれた近藤の芸能活動を守ることを最優先に考えて動いた。
ただ、百戦錬磨のメリーが、明菜のマネジメントを経験の浅い人物に委ねればどうなるのか。その結末を予測できなかったはずはない。
大晦日の「金屛風会見」
疾風怒濤の80年代が、終わりを告げようとしていた89年12月、明菜の記者会見は急遽決まった。12月31日の大晦日、しかもNHKの紅白歌合戦が放映されている夜10時に設定され、その様子はテレビ朝日が生中継することになった。
芸能史に残る“金屏風会見”である。中継を担ったテレビ朝日は当時制作三部長で、音楽班を仕切っていた皇達也が陣頭指揮をとった。皇はテレビ朝日の実力者として知られていたが、2021年3月に逝去。この金屏風会見については、生前に「私がメリーと話をして決めた」と語っていた。
事情を知るテレ朝関係者が明かす。