もう未練はない。プロ4年間で追い求めてきた自分の投球スタイルと、最後に出会うことができたから。
10月10日、中日の育成選手だった松田亘哲は、眩しいほどに清々しい表情で名古屋市内の焼き鳥店に現れた。「現役引退します。今までありがとうございました。大変お世話になりました」。丁寧なあいさつはほどほどに、ビールで乾杯した。
2019年のドラフトで、名古屋大から史上初となるプロ野球選手になった男は、今年の10月5日、球団事務所で来季の契約を結ばないことを通達された。ただ、その数日後の慰労会で一目見た時、悲壮感は一切なかったので安心した。
「人として成熟したい。深みを持った人間になりたい。そういう大人になるためにこれから勉強したい」
律儀で真面目すぎるが故に、正解を求め、悩むことばかりだった。それでも松田だからこそ歩めたプロでの4年間と言っていい。「背番号207」に誇りを持って生きてほしい。松田の4年間に敬意を込めて、このコラムを残したい。
プロ4年目、松田を襲った“異変”
松田の経歴は極めて異色だ。小学1年から野球を始め、中学まで軟式野球をしていたが、地元の公立校・江南高では、野球部じゃなくバレー部に所属した。東大、京大など旧帝大の一つである名大へ進学し、再び野球に取り組んだ。
入学当時は「どこにでも普通にいる投手か、それ以下」と振り返るが、当時野球部を見ていた山本敏史トレーナーとの出会いが才能を開花させた。卒業間際には最速148キロと急成長を遂げ、念願だったプロの門をこじ開ける。
入団時にトレードマークだった黒縁メガネ(今はコンタクト)からも人の良さは連想できるが、実際に触れ合ってみても性格は穏やかで礼儀正しい。ナゴヤ球場では、記者が待機している場所を選手が何度も往来するが、目が合うたびに明るく挨拶してくれる。誰にでもだ。ある日、私とも松田とも仲の良い中日担当の記者が結婚することを耳にすると、「なんで先週ご飯食べたのに、その時言ってくれないんですか! 幸せなことなんだから直接報告してほしかったですよ!」と、初めて怒っている姿を見せた。それだけ情に厚い人間なのだ。日向坂46の渡邉美穂の話をしている時はさらに目尻が下がるが、普段から温厚で優しいのがマッチの人柄である。
背番号が3桁の育成選手は「支配下契約」をつかまなければ、数年の猶予で淘汰される。プロ4年目だった今年は、特に苦しんだ。
松田が“異変”を感じたのは4月。認めたくなかったが「イップス」のような症状が出た。投球時にボールを離すことができない。右足を上げ、本塁方向へ体重移動しながらテイクバックを取ることはできる。でも、いざ捕手のミットを狙うと体が硬直した。ボールを握った手が磁石のようにくっついて離れない。
「技術の問題だと(自分の気持ちに)ふたをしていた時はよかったんですけど、『これはメンタルの問題』って気づいた瞬間に全く投げられなくなりました」
松田の異変を端的に言えば、フォーシーム(一般的なストレート)が投げられなくなったことだ。「(強い)ストレートを投げられないと支配下になれない」「これで野球人生も終わった」「落ちるところまで落ちた」。普段は前向きな松田だが、ネガティブな思考だけが脳内に襲いかかった。
投げることに関して一進一退の状況の中、支えてくれたのは松田に対し気丈に振る舞ってくれる先輩たちだった。岩崎翔、福谷浩司、岡田俊哉の3人と交わす会話は、松田にとって「心のリハビリ」にもなった。
イップスだったという自身の体験を基に相談に乗ってくれた岡田は「マッチ、投げられるようになってるよ。今、取り組んでいることを継続すれば投げられるようになるよ」と常に前向きに励ましてくれた。岩崎には「『ソフトバンクではこんなアプローチだった。その上で、俺はこういう考えだよ』とよく相談に乗ってもらいました」という。
「今日キャッチボールできました」「ようやく全体メニューに入ります」と報告すると、みんな自分のことのように喜んでくれた。残留練習でとことん向き合ってくれた浅尾拓也コーチ、ツーシームを覚えるきっかけとなった山井大介投手コーチと指導者にも深く感謝している。多くの人たちに支えられて、一歩ずつ復活を目指した。