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《監督をした「南極大陸」でご一緒したときに、これは別格の役者だなとは思っていました。何といっても、しゃべりが早いですから。その上、的確で滑舌もいいし、膨大な台詞も覚えられる。これは、特殊技能ですよ》と、福澤は彼を主演に起用した理由を明かしている(『週刊朝日』2013年9月13日号)。

『半沢直樹』の原作者・池井戸潤と堺雅人 ©文藝春秋

 同じく福澤が監督した『VIVANT』でも、堺が早口でセリフをまくしたてるシーンが用意されていた。それは第8話で、ドラマの舞台である架空の国・バルカの児童養護施設を乃木が訪ねたときのこと。乃木は、その施設で子供たちの食事に出されていたご飯の重さから、職員の不正に気づくと、細かく数字を挙げながら滔々と職員を問い詰めていったのだった。これには多くの視聴者から、『半沢直樹』を思い出したという声が上がった。

「早稲田のプリンス」だった

 堺の滑舌のよさは、舞台で鍛えられたものなのだろう。彼の芝居との出会いは、宮崎県立宮崎南高校で演劇部に入ったときにさかのぼる。もともとは、顧問の教師や先輩が威張っていなくて、のんびりやれそうな部だったからという消極的な理由で入ったのだが、やがて演劇の面白さを知るにいたる。

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 その後入学した早稲田大学でも演劇研究会に所属し、1992年に劇団「東京オレンジ」の旗揚げに参加、看板役者として「早稲田のプリンス」と呼ばれるほどの人気を集めた。このころ、芸能事務所にスカウトされて契約を結び、テレビや映画にも出始める。大学は演劇にのめり込むあまり中退、それ以来、実家の父とは絶縁状態が続いたが、NHKの朝ドラ『オードリー』(2000~01年)に出演して、ようやく俳優になったことを認めてもらえたという。

 いまや押しも押されもしない人気俳優となった。これだけの立場になれば、作品を選びたい、自分で作品をつくりたいといった欲も出てきそうなものである。しかし、堺は「作品は選ばない。依頼された仕事は可能ならば全部やりたい」とことあるごとに口にしてきた。

©文藝春秋

50代の入り口で出会ったヒット作

 彼からすれば、俳優の商売は完全に受け身であり、《監督や演出家、プロデューサーなどから投げかけられるボールがまず最初にあって、それを打つバッター》なのだという(『婦人公論』2009年9月22日号)。『半沢直樹』が大ヒットしてからも、《役者だっていうのをやらせてくれる人がいないと役者にならない》と語っていた(『CUT』2013年12月号)。もっとも、こうした彼の言葉は謙虚なようでいて、どんな役でも受けて立つという自信の表れのようにも思われる。

『VIVANT』は福澤監督のなかではすでに続編の構想があるという(例のFの謎もそこで解かれるのだろうか)。ただ、そもそも作品のスケールが大きいうえ、出演陣も人気俳優ばかりなので、すぐにまた……というわけにはいくまい。シリーズ化されるとすれば、おそらく長いスパンをかけてということになるのだろう。堺にとって円熟味を増していくだろう50代の入り口で、こうした作品を得たことは、まさに役者冥利につきるのではないか。見る側としても、同じく続編が期待される『半沢直樹』などとあわせて、楽しみが増すばかりだ。