40年前のきょう、1978(昭和53)年3月26日、その4日後に開港を控えていた新東京国際空港(現・成田国際空港)で、開港を阻止しようとした過激派の活動家たちが管制塔を占拠し、機器を破壊しつくした。活動家たちはその前夜、マンホールから空港内に通じる排水溝に入って一晩をすごし、この日午後1時ごろに空港内に突入。途中で逮捕者を出しながら、管制塔の14階のベランダからパラボラアンテナをよじ登り、地上60メートルの管制室へ侵入する。管制官らは襲撃を受けて管制塔屋上に避難、ヘリコプターで救出された。管制塔を占拠した6人は午後3時半すぎに逮捕される。この騒ぎのなか、空港内に侵入した反対派のトラックが炎上、活動家の学生が大やけどを負い、3ヵ月後に死亡した。
新東京国際空港は、1965年にその建設地に千葉県富里村(現・富里市)が内定したが、地元住民の強い反対を受け、翌66年、三里塚御料牧場があり、県有地の広い三里塚周辺に変更される。しかし地元の合意を得ないままの建設推進は深刻な軋轢を生んだ。建設の閣議決定と前後して地元住民は三里塚空港反対同盟を結成、やがてそこに新左翼の活動家も参加し、反対闘争は激しさを増していく。そのなかで警察・反対派の双方に多くの血が流された。
空港の開港は、管制塔が使用不能になったため、5月20日に延期される。建設決定から12年を経てやっと迎えた開港式は厳戒態勢のなか行なわれた。なお、空港反対同盟はその後、大衆運動路線をとる熱田派などに分裂。1990年代前半には、熱田派が反対派としては初めて国側と本格的に対話した成田空港問題シンポジウム(91年11月~93年5月)に続き、成田空港問題円卓会議(93年9月~94年10月)を行なう。円卓会議では、未完成の2本の滑走路のうち、平行滑走路(B滑走路)の建設を必要とする国側の方針を理解し、横風用滑走路(C滑走路)の建設を凍結する調停案に、運輸省・空港公団(いずれも当時)と熱田派が合意した。平行滑走路が本来の計画どおり2500メートルで運用を開始したのは、2009(平成21)年10月のことである。