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『ゴジラ-1.0』と『シン・ゴジラ』の“最後の表情”が正反対な理由 アメリカの隠喩でも環境破壊の警鐘でもなくなった怪獣の“正体”とは

『ゴジラ-1.0』と『シン・ゴジラ』の“最後の表情”が正反対な理由 アメリカの隠喩でも環境破壊の警鐘でもなくなった怪獣の“正体”とは

2023/11/15
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 それに対して、『ゴジラ-1.0』は時代を戦後すぐというオリジナルの『ゴジラ』よりも前に設定したが、そこにある欲動は「戦後体制を越えていくこと」であった。

 だがそれは、『シン・ゴジラ』のように政治の物語そのものとしてではなく、主人公敷島(神木隆之介)の個人的物語として語られる。つまり、戦時中に特攻飛行隊員となるものの死への恐怖から逃げ出し、なかんずく遭遇したゴジラに攻撃することができずに同胞たちの死を招いたという「戦えなかったぼく」=「去勢」の経験の乗り越えである。

主演の神木隆之介 公式予告PVより

 ゴジラは環境破壊への警鐘でも、アメリカの隠喩でもない。それは、特攻で死ぬことで同朋を救えなかった敷島のもとに現れる亡霊だ。

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『シン・ゴジラ』が解決できないものとして提示した戦後日本の去勢の経験を、『ゴジラ-1.0』は乗り越えようとする。だがそれは、「再軍備化」によるものではない。再軍備化による去勢の乗越えは、敷島の自爆死を意味しただろうし、それでは作品はあまりにも陰惨なものになっただろう。

『プロジェクトX』的な「ものづくりジャパン」へのノスタルジー?

『ゴジラ-1.0』は日本の去勢を「民間」の強調によって乗り越えようとする。その結果、敷島は国家の命令の下での自爆死を再演することなく、去勢の象徴・亡霊としてのゴジラを祓うことに成功する。多分にご都合主義的な結末によってではあれ。

銀座を破壊するゴジラ 公式予告PVより

 結果的にこの作品は、特攻死を否定し、「生きる」ことを肯定する。かといって、この作品は戦後民主主義的な平和主義──つまり、55年体制的な護憲平和主義──なのかと言えば、それも違う。しかしやはり、述べたように、改憲・再軍備を指向するものでもない。それは、どう考えればいいのだろうか?

 この作品は「民間」(国家ではなく私企業)による「日本」の再興の物語である──このように言語化してみると、この作品がいかにも時代遅れに思えてしまうのは私だけだろうか。『下町ロケット』や『プロジェクトX』的な、「ものづくりジャパン」へのノスタルジー。そのような夢が破れてしまった、もしくは破れつつあるのが、経済停滞にあえぐ今の日本ではないのか?