ここで私は、この作品における「民間」の人びとのプロジェクトを、『ゴジラ-1.0』という映画そのものへの自己言及とみなせると提案してみたい。つまりこの映画は、文化面における「戦後」を乗り越えようとする。文化面における戦後を映画に関して乗り越えるとは、すなわちハリウッドに伍することである。
そのような映画であるなら、私が否定したセンチメンタリズムやご都合主義は、むしろハリウッドの劇作法に、日本の文脈で忠実に従ったものとみなすことができる。その懐古的でナショナリズム的に見える内容も、じつのところ世界市場にこの映画を売り出すにあたっては、「日本的なもの」としてパッケージ化されたアイテムとみなすべきものである。
(ついでながら、そう考えると、冒頭の大戸島のは虫類的ゴジラは、ハリウッド版ゴジラへの皮肉な言及にも見えてくる。ハリウッドがやったことくらいは簡単にできますよ、という宣言である。)
「ゴジラ-1.0」はクールジャパンの夢を見る
すでに廃れつつあるように思える言葉を使うなら、この映画は「クールジャパン」の夢を見る。この経済停滞の中、コンテンツ産業において一矢報いたいという夢である。
グローバルな(ハリウッド的な)劇作法には背を向けて特殊日本的=庵野的な表現の濃度をひたすらに濃くした『シン・ゴジラ』に対して、『ゴジラ-1.0』は日本的な内容を、ハリウッド的劇作と表現でパッケージ化して世界に売り出している。
北米ではすでに1500館での公開が決まっているというこの作品は、まずはそのミッションに成功しつつあるようだ。この映画は、私たちに「戦後が終わった後」の夢の空間を見せてくれるのだろうか。