東京を絶望的な破壊に飲み込むゴジラを凍結する作戦が成功した瞬間、作戦にたずさわった人びとの緊張は解け、みながため息をつく。こういった場面にありがちな、喜びを爆発させたり、泣きながら抱き合ったりといったものは皆無で、みなが憔悴しきった様子でため息をつく。

 ……これは2016年公開、庵野秀明・樋口真嗣監督の『シン・ゴジラ』のクライマックスである。私はこの瞬間は、数あるゴジラ映画の中でも最高の瞬間の1つだと思っている。そして、この瞬間は、『シン・ゴジラ』と、大ヒット公開中の『ゴジラ-1.0』の歴史観の違いの本質を表現している。

 山崎貴監督『ゴジラ-1.0』は確実に、ゴジラ映画史に新たな1ページを開いた。ほんの7年前に『シン・ゴジラ』という怪物のような作品があったにもかかわらず、白組の手掛けるこの映画の視覚効果(VFX)は日本映画の視覚効果を一段上に引き上げたと感じられる。

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山崎貴監督 ©時事通信社

 一方で、芝居や演出は、好みが分かれるかもしれない。筆者は正直に言って、山崎監督の『ALWAYS 三丁目の夕日』などの過去作と同様に、そのお涙頂戴のセンチメンタリズムはちょっと受けつけなかったが、それは個人的な好みの問題だと言われればそれまでかもしれない。世間の評判から考えると、私の感性は少数派のようだ。

*以下、『ゴジラ-1.0』の結末に触れる部分があります。

「シン・ゴジラ」は日本の戦後を「未解決なもの」として扱った

 それ以上に興味深いのは、そのようなセンチメンタリズムも含めて、『ゴジラ-1.0』は『シン・ゴジラ』への「返歌」かとも思えるほどに、この2つの作品が好対照をなしていたことである。その対照性は、先ほど記述したクライマックスの場面が雄弁に物語っている。『ゴジラ-1.0』では、なんの衒いもなく登場人物たちは歓喜する。

「ゴジラ-1.0」公式予告動画より

 この演技・演出の違いは、演劇性やリアリティに対する考え方の違いにとどまらないものであるように思われる。それは、日本の戦後をどう考え、それにどのような物語をほどこすかという、ほぼ歴史観の違いといっていいものを表現しているのであり、それを観る私たちはその違いに十分に意識的になるべきだろう。

『シン・ゴジラ』は戦後日本を、その国際関係ともども、終わりがなく未解決のものとして差し出し、ゴジラ出現以降の政府の動静とアメリカを中心とする国際関係をたっぷりと描いた。

 もちろん、東日本大震災が引きおこした原発メルトダウンに対する政府の対応を固唾を呑んで見守るという経験によって、私たちの中にそのような想像力が研ぎ澄まされていたことが大きい。

 そして、東京のゴジラに対するアメリカによる核攻撃が迫る中、ゴジラはぎりぎりのタイミングで凍結される。しかしそれはあくまで一時的な凍結である。アメリカによる覇権とその「傀儡」としての日本政府という関係──つまり戦後体制の残滓──は「未決」のままに繰り延べにされる。