ここに入ってしまったら袋のネズミ……私の作戦は賭けであった。これが失敗すれば、小生はあえなく斬首。数時間後に出勤してくる日勤職員が悲鳴をあげる事態になってしまう。
けれど、今の状況で生存の可能性が一番高いのは、これしかない!
私は冷蔵庫を開けてジュースのペットボトルを取り出した。
「ヨウさん、ほら見て! ジュース! ジュースだよ!」
……ヨウさんの動きが、ピタリと止まる。
勝機! 一気に畳みかける!
「さっきはね、ヨウさんにジュース飲まない? って誘いに行ったの! 用意するからちょっと待っててね!」
笑顔を崩さないようにして、棚から手探りでコップを取り出す。ヨウさんからは片時も目を離さず、コップに「充実野菜」を注ぎ入れる。
「はい、どうぞ!!」
「……」
ヨウさんは、パイプ椅子をガシャンと床に放った。
そして私の手から「充実野菜」をひったくると、そのまま一気に飲み干した。
「日本人の女、一番バカ」に垣間見るヨウさんの心の闇
「日本人は皆バカ。お前もそう。女だから一番ダメ。日本人の女、一番バカ。バカで汚い」
……その汚いバカからもらったジュースは全部飲むんかい! と「充実野菜」のペットボトルでスパーンと側頭部にツッコミを入れたくなったが、そこはグッと我慢した。
多分、ヨウさんは日本にいい思い出がないのだ。
日本がバブルだった頃に来日し、魚の缶詰工場で働き始めた彼は、言葉の壁や外国人に対する差別で心を病み、仕事が続けられなくなったらしい。
しかし身内の紹介で知り合った同郷の女性と結婚したのをきっかけに、今度は魚屋の自営に踏み切る。ここでも同じような理由で精神の健康を損ねたらしいが、奥さんに支えられながらなんとか仕事を続け、子どもたちを育てていったそうだ。
母国の両親にお金を送るため、ヨウさんはその心を削って日本に残る選択をし続けた。
けれど、私だって「日本人の女は一番バカで汚い」なんて言われれば、彼のその半生をガン無視して「バカって言う奴が一番バカなんだよ!」と言い返したくもなる。大変な人生だったのだとは思うが、それとこれとは話が別だ。
……もしかすると、特に日本人の女性に、めちゃくちゃイヤな思い出があるのかもしれない。彼も「お前の国の奴は皆バカ。そして汚い」と、罵られたことがあるのかもしれない。
だとすれば、ヨウさんの心を一番傷つけたであろう言葉で、また人を傷つけるというのは、なんとも悲しく、辛い連鎖であるとも感じた。
「バカな女」
ヨウさんはそう吐き捨てると、コップを床に放り投げて、居室に戻って行った。
外は、もうすっかり明るかった。この朝日が拝めたことを、私は心の底からうれしく思ったのだった……。
その後、ヨウさんの怒りがぶり返すことはなかった。
朝食のサバの塩焼きを「俺魚好き! うれしい!」とニコニコしながら食べ、自分の席でちぎり絵に熱中し、ゴミ捨てを手伝ってくれたりもした。
ヨウさんは力持ちなので、力仕事をお願いするといつも快く引き受けてくれる。私はゴミ捨て場からの帰り道、「ヨウさんがいてくれて本当に助かったよ」とお礼を言った。
「俺、まだまだ力ある。日本人の男より力ある。だから、いつでも言って」
……基本的には優しいんだよなぁ、この人……。私は「うん、またお願いしますね」と返事をしたが、いつものように上手く笑えている自信はなかった。