「殺す!」椅子を振り回しながら追いかけてきて…
私は迷った。そこはトイレではないのだけれども、彼はいま排泄の真っ最中、つまり超プライベートな時間だ。そこでいきなり声をかけたら、イヤな気分にさせてしまうかもしれない。
見た通りヨウさんは生きていたわけだし、このままスルーして立ち去り、タンスの中はあとで掃除すればいいのではないか……。
けれど、このままタンスの中に用を足すというルーティンがヨウさんにできてしまった場合、衛生面が非常に悪いまま生活を送ってもらうことになってしまう。
もよおしたら、トイレに行ってもらう。ヨウさんの生活の質と健康を維持するためにも、ここはやはり声をかけるべきであると私は判断した。
「ヨウさ~ん、こんばんは……変な時間にごめんなさい、あのですね、タンスの中にはおしっこをしないでほしいんですよ。そういうときはトイレへ……」
「あ!?」
そのとき、私は判断を間違えたのだと悟った。
ヨウさんは鋭い眼光でこちらを睨みつけると、高齢者とは思えない光のような速さでズボンを上げ、手近にあった折り畳み式のパイプ椅子を掴んだ。
私はすぐさまドアを閉めて逃げた。
しかし、数秒もしないうちにそのドアは勢いよく開いた。
そして、ヨウさんが椅子を振り回しながら追いかけてきたのである。
「バカ女、殺す」
ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい! どうしよう!!
「包丁で首切って殺す」
……トイレで用を足して下さいってお願いしただけで死刑判決ですか、私!? しかも、結構苦しそうな殺り方!!
「ヨウさんごめん、私が悪かった! 大丈夫、なんでもないから気にしないで! 忘れて!」
「殺す!」
「本当にごめん! 怒らないで! 殺さないで!」
「……@*%#>……$#+*&%@……」
後半はヨウさんの母国の言葉だったので、何を言っているのかわからない。それが死ぬほど怖かった。
生存可能性を賭けてキッチンカウンターへ
私は内線で上のフロアの夜勤者に助けを求めようとした。
しかし、ようやくリビングまで逃げ延びても、ヨウさんに回り込まれたりフェイントをかけられたりして思うように進めない。加えて、テーブルや椅子が進路の邪魔になり、電話機が置いてある場所までなかなかたどり着けないのだ。
ヨウさんはめちゃくちゃ執念深かった。
眼光は一瞬たりとも鋭さを失わず、その腕は疲弊など知らぬといった様子でパイプ椅子を振り回し続けた。しかも、私を追いかけリビングを5周くらい走り続けているのである。
子どもの頃、プロレス会場でタイガー・ジェット・シンにヤジを飛ばしたら、リングの下を5、6周追いかけられたという知り合いがいたが、彼は「あのときはマジで殺されるかと思った」と声を震わせていた……。その気持ちが、私はこのときようやくわかった。
どうすればいい、ちか子! 考えろ、考えろ、考えろ……!
……このときの私の脳の回転速度は、日本が誇るスーパーコンピューター「富岳」の計算速度と同じくらいだったと思う。
私はヨウさんにフェイントを返し、一瞬の隙を突いてキッチンカウンターの内側へと入った。