11月15日に95歳で亡くなった創価学会の池田大作名誉会長と、社会派推理小説の巨匠・松本清張氏は、『文藝春秋』(1968年2月号)で対談していた。対談当時、清張氏58歳、池田氏40歳。大きな反響を呼んだことはもちろん、これをきっかけに清張氏が仲介役となり、池田氏と日本共産党の宮本顕治委員長との間で、敵視政策の撤廃などを骨子とした「創共協定」(1974年)が結ばれることになった“伝説の対談”だ。

1958年に2代目会長の戸田城聖氏が死去し、2年後に32歳という若さで池田氏が3代目会長に就任するや、創価学会は組織を急速に拡大。対談前年の衆議院選挙で公明党は25名もの当選者を出し、強引な布教活動も相まって、社会的に創価学会への警戒心が高まっていた頃だった。そんな折、池田氏は1人でふらりと対談場所に現れたという。

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池田大作氏 ©文藝春秋

松本 お忙しいでしょうね。

 池田 ええ、今日は一人で抜けだしてきました。わたしは体が弱いものですから、まわりの人が心配して、できるだけ自由な時間を作るようにしてくれるのですが、どうしても……。それに性格的に、のんびりしているのは申しわけないような気がして、つい仕事をやってしまうんです。(笑)だいたい、半年くらい前から日程が決ってしまいます〉

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 話題は池田氏と2代目会長の戸田氏が出会った経緯にはじまり、池田氏の生い立ちと強烈な原体験に及んだ。

戦争、貧乏、病弱は人間を不幸にする

池田 家の方もたいへんでした。わたしの家は没落企業のノリ製造業だったのです。

 松本 大森(東京)ですね。

 池田 そうです。これは因果な商売でしてね。寒いときでも朝早く暗いうちから起きて働かなきゃならない。えらい仕事の家に生れた、と思いましたね。わたしは5男で兄貴4人は全部兵隊にとられました。長兄はビルマで戦死した。子供がみんないくらか成長して、楽になりかかったときに出征ですからね。息子4人が次々と出征していくときの父母の淋しそうな顔を覚えています。おもてでは「軍国の母」といわれてましたがね。かげでは非常に淋しそうでした。深刻な生活問題もあるだろうし、せっかくここまで育ててきた息子を戦争にとられるという父母の悲しみ……そのときの印象は、生涯忘れられない。

 松本 そのときはいくつでした?

 池田 小学校6年生のころでしたから、11、2歳だったと思います。そのころわたしは病気でしたが、兄が4人兵隊にとられたので、わたしが総領の立場になりました。

 この時です。戦争は絶対にいけない。それから貧乏もいけない。もう一つ病弱もいけない。それは人間を悲惨に、不幸にするものだ、ということが、頭に焼きついた〉