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空想だけで世界を作るのは難しい

――『華竜の宮』は、ほとんどの陸地が水没し、人類が「陸上民」と「海上民」に分断された近未来を描いています。揉め事の起こり方が、現実世界と近い印象を受けました。

 もともと、現実の世界で、船を住み家にして海で生活する民族がいます。文化人類学では「漂海民」と呼ばれる人たちで、有名なのは東南アジアのバジャウ族ですね。こういった民族は世界中にいます。日本でも近代までは各地域の沿岸に存在して、瀬戸内海の水上生活者は1960年代ぐらいまでいたそうです。

写真:アフロ

 ファンタジー作品として有名な『ゲド戦記』は、「アースシー」という多島海世界が舞台になっていますが、著者のル=グウィンは文化人類学に造詣が深かったので、そのあたりにとてもリアリティがありますね。漂海民をモデルにしたとおぼしき、いかだ族という海の民族も登場します。

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 本格的にファンタジーを書かれる方は、食べ物や宗教など、世界観を非常に緻密に、完璧に作り込んでいく方が多いのですが、私はそういう物語の作り方はできないので、現実から出発します。

 私の作品で、民族のありかただけでなく、架空の世界の揉め事が、どこか現実とつながっているように見えるのは、たぶん、このあたりが理由でしょうね。現実をそのまま描いているわけではないのですが、現実から想像していくと、社会の条件が違えば、こういうことも起こり得るのではないか、という発想で書いているのです。

機械で処理するのではなく、生き物としての人間に惹かれる

――たしかに、人間の営みなどは百パーセント想像では作れない気がします。

 科学は、人間の身体そのものについては細部まで詳細に解き明かしつつありますが、内面――心の問題には、まだまだ到達できていません。脳科学の分野はかなり進んできましたが、分かっていないことのほうが遥かに多い。だから小説で書く余地がある。

 SFでは人間を機械化したり、意識だけを取り出して機械に移す作品が多いのですが、私はどちらかというと「生き物としての人間」のほうに強い興味があります。生き物というのはいったいなんなのか、生き物としての人間というのはなんなのか、社会というのは生き物である人間が自分たちでつくっていったのに、なぜ人に害する要素を含んで発展してしまうのかとか、生き物や人の生き方について、小説の中で追求したいといつも考えています。

「播磨国妖綺譚」のような、室町時代の人と物の怪を描いた物語は、私にとって、生き物や命の問題を考えるときに、とても、しっくりくるのです。陰陽師の呪(まじな)いを通して、それが解き明かされていく気がします。物語世界と人間に対する興味が、ちょうどうまい具合に噛み合うんです。

『播磨国妖綺譚 あきつ鬼の記』(文春文庫)

「播磨国妖綺譚」は、私の作品の中で最も読みやすいシリーズだと思うので、多くの方に届いてくれたらとても嬉しいですね。室町時代はあまり扱われない時代ですし、陰陽師というと「京の都」がイメージされてしまうのが難しい点ですが。

――今回の記事で、「京の都の陰陽師と播磨国の陰陽師は違う」ということを、しっかり強調したいと思います。上田さん、ありがとうございました。