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生きる希望を与えた「復興ソング」

「未婚の母」になった笠置は引退を撤回し、再び舞台に上がる。笠置から「センセ、たのんまっせ」と言われた服部は、とびきり華やかな歌で再起の場をつくりたいと考えた。同時にそれは日本人の明日への活力にもなるはずだ。服部は満員電車に揺られながら浮かんだメロディをもとに作曲し、鈴木大拙の息子の鈴木勝に作詞を依頼した。「東京ブギウギ」の誕生である。笠置の私生活を不幸が襲わなければ、「東京ブギウギ」も生まれなかっただろう。

「東京ブギウギ」は日本人だけでなく、笠置の人生にとっても「復興ソング」となった。笠置は舞台の上で力強く歌い踊り叫び、楽屋に戻るとヱイ子をあやしてお乳を飲ませた。その姿に誰よりも声援を送ったのが、ガード下に生きる夜の女たちである。当時「パンパン」と呼ばれた街娼は6大都市だけで約4万人いたといわれている。笠置の境遇に共感するものがあったのか、彼女たちは日劇のステージの最前列に座り、花束を投げ入れた。笠置も劇場の外で彼女たちと交流をもち、病気と聞けば見舞いに駆けつけるなど、つきあいを続けた。笠置の歌うブギウギは、時代に虐(しいた)げられた人々にも生きる希望を与えるメロディだったのである。

肌身離さず身につけていた一枚の名刺

 日本が復興から高度成長へ転換する1950年代後半から、笠置は次第に歌わなくなった。40代を迎え、肉体的な衰えがくる前の全盛期で身を引いたのである。1970年前後に懐メロブームが起こり、もう一度歌ってほしいというオファーが寄せられても、笠置は二度とマイクの前に立たなかった。娘のヱイ子によれば、自分の歌は鼻歌ですら歌わなかったという。笠置は再び人前で歌うことなく、1985年に70歳で亡くなった。

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 笠置は一枚の名刺を肌身離さず身につけていた。親しい人にはそれを見せ、「夫が初めて会ったときにくれたの」と照れたという。笠置の心には、いつまでも美青年の頴右が生き続けていたのである。

◆このコラムは、政治、経済からスポーツや芸能まで、世の中の事象を幅広く網羅した『文藝春秋オピニオン 2024年の論点100』に掲載されています。