50年前のきょう、1968(昭和43)年3月30日、読売テレビ制作・日本テレビ系でアニメ『巨人の星』の放送が始まった。原作は、梶原一騎作・川崎のぼる作画により1966年から『週刊少年マガジン』(講談社)で連載されていた野球マンガ。
主人公の星飛雄馬は、かつて巨人軍の三塁手として将来を期待されながら、戦争で肩を壊して挫折した父・一徹に夢を託される。アニメの第1回も、小学生の飛雄馬が雪のなか一徹から猛特訓を受けるシーンから始まった。こうした内容から、『巨人の星』はスポーツ根性(スポ根)物の元祖とも呼ばれるようになる。ただし原作者の梶原一騎は、スポ根という語に対し《それを言うのならドン男路線――すなわち、ドン・キホーテ男性路線とでも願いたい》と反発を示した(『文藝春秋』1971年12月号)。梶原は飛雄馬たち親子を小説『ドン・キホーテ』の主人公になぞらえ、はた目には滑稽に見えても、本人は真剣に巨大風車めがけて突撃していく、そうした姿こそが男の美でありロマンであると考えていたのだ。
「万が一視聴率がとれなかったら、制作費はいただきません」
アニメ化の実現にあたってはアニメ制作会社・東京ムービー(現トムス・エンタテインメント)の専務兼プロデューサーの藤岡豊が、放送局やスポンサー探しに奔走した。放送局については、フジテレビや日本テレビなど各局をまわった末、大阪の読売テレビがキー局として持っている全国放送の枠で放送することに決まった。スポンサーには大塚製薬がつく。このとき藤岡は、同社の大塚正士社長(当時)相手に交渉したが、なかなか色よい返事がもらえず、ついには「万が一視聴率がとれなかったら、制作費はいただきません」とまで約束して、やっと承諾を得たという(斎藤貴男『『あしたのジョー』と梶原一騎の奇跡』朝日文庫)。しかし、そう言い放つだけの自信を、藤岡はこの作品に対して持っていた。
土曜夜7時、NHKの定時ニュースにぶつける形で放送が始まった『巨人の星』はたちまち子供たちの心をつかみ、常時30%台の高視聴率を記録した。やがては、どんなに忙しくてもこの放送時間までには帰宅するという大会社の重役が現れるなど大人をもとりこにした。
テレビアニメ『巨人の星』は1971年9月18日まで足かけ4年にわたり続いた。その後、同じく梶原・川崎のコンビによる続編『新・巨人の星』もアニメ化された(1977~78年)。時代は下り、2012(平成24)年にはインドで、トムス・エンタテインメントと同国のアニメ制作会社の合作により、野球をクリケットに替えて同作をリメイクした『スーラジ ザ・ライジングスター』も放送されている。