いまから50年前のきょう、1967(昭和42)年12月15日、『週刊少年マガジン』(講談社)の1968年1月1日号(1号)が発売され、その誌面で高森朝雄原作によるちばてつやのマンガ『あしたのジョー』の連載が始まった。高森朝雄とは、すでに同誌で前年から『巨人の星』(川崎のぼる画)を連載していた梶原一騎のもう一つのペンネームである。
梶原一騎(当時31歳)に、彼がこよなく愛するボクシングをテーマにした作品の執筆を持ちかけたのは『マガジン』の編集者の宮原照夫だった。ちょうど同時期には、ちばてつや(当時28歳)もボクシングにのめりこみ、同誌での『ハリスの旋風(かぜ)』のあとの連載ではこれで何かを描きたいとの意向を示していた。そこで宮原に引き合わされた二人は、お互いの作風の違いに懸念を抱きながらも、一緒に作品を手がけることになる。
ちばは新連載を前に、主人公の矢吹丈が活躍する舞台を実際に見ておこうと、労務者向けの簡易宿泊所が集まる東京・山谷地区の、いわゆるドヤ街に何度か足を運んでいる。最初の取材時には、自分でも泊まってみようと一軒の宿に入ってみた。窓口はお互いの顔が見えないようにつくられており、泊まらせてほしいと言うと、宿帳と鉛筆を突き出される。しかし、ちばが名前や年齢を書き出したとたん、いきなり宿帳を取りあげられ、ベッドがないとの理由で断られてしまう。
しかたなく外に出たちばは、いつのまにか数人の住人に目をつけられていることに気づき、あわててその場から逃げ出した。このあと、忘れないうちに宿泊所の情景を描いておこうと、ポケットからスケッチブックと鉛筆を取り出したとき、彼ははたと気がつく。自分のように、労働をしたことのない柔らかい手をした人間が山谷にいるはずがない。宿泊所の人はきっと、名前を書くその手を見ただけで、正体が怪しいと見破ったのだと(ちばてつや・高森朝雄・豊福きこう『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』講談社)。『あしたのジョー』の冒頭には、ジョーがこざっぱりとした格好をしていたために、ドヤ街で宿泊を断られるシーンが出てくるが、これはまさにちばの体験を反映したものだろう。
じつはちばは、連載が始まって最初の2、3話は梶原の原作にほとんど触れていなかった。それに怒った梶原は、編集者に降板までほのめかしたらしい。だが、ちばは梶原に「自分の仕事は原作を料理して、おいしく食べやすく味つけすることだ」と直接話し、納得してもらう。原作をいじられることをいやがった梶原だが、ちばの力量を認めていたこともあり、『あしたのジョー』はそれを受け入れた唯一の作品となった(斎藤貴男『『あしたのジョー』と梶原一騎の奇跡』朝日文庫)。手のつけられない不良少年だったジョーが、ドヤ街で出会った丹下段平をコーチとして、やがてボクシングに魂を燃やしていくという物語は、多くの若者の共感を呼ぶことになる。連載は1973年まで足かけ7年におよんだ。