文春オンライン

「あっと驚いたのち、膝を打つ」古代中国の法則で邪馬台国論争に一石を投じる画期的新説

note

最大の誤りは「邪馬台国」の読み方

 一つ目は、「邪馬台国」は「ヤマタイ国」ではなく、「ヤマト国」と読むこと。

「ヤマタイ国」と読んできたことを桃崎氏は「邪馬台国論争を解決から遠ざけてきた最大の誤り」だと述べる。

「卑弥呼の墓」とも言われている箸墓古墳 ©文藝春秋

 二つ目は、今では「倭」と書いて「ヤマト」と読む、という訓読みは一般的になっているが、その訓読みは7世紀以前には存在しなかった、ということだ。

ADVERTISEMENT

「倭」は、中国では後漢(25〜220年)までに日本列島とそこに住む人々を指す言葉となっていた。一方、「ヤマト」は、現在の奈良県にある、かなり狭い地域を表す地名だった。

なぜ「倭」と「ヤマト」が結びついたのか

 中国の歴史書で「倭」が初めて日本列島とそこに住む人々の呼称として登場するのは、1世紀に成立した「漢書」地理志。つまり、およそ600年間、「倭」と「ヤマト」という言葉は、結びつくことなく、別々に存在していた。

 指し示す範囲がまったく異なり、長い間、独立して存在していた、二つの固有名詞がなぜ、どのようにして結びついたのか? この謎と「邪馬台国がどこにあったのか?」は、一見、何の関係もないように見える。しかし、この謎が邪馬台国の場所を突き止める重要な鍵になるのだ。桃崎氏はこの問題を丹念に追いかけ、自らが発見した「古代中国では一般的な法則」に照らして考えることで、邪馬台国の場所を推理していく。

 あっと驚いたのち、膝を打つ、桃崎氏の鮮やかな新説「邪馬台はヤマトである」は、「文藝春秋」2024年3月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されている。

文藝春秋

この記事の全文は「文藝春秋 電子版」で購読できます
画期的新説 邪馬台はヤマトである
「あっと驚いたのち、膝を打つ」古代中国の法則で邪馬台国論争に一石を投じる画期的新説

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文藝春秋をフォロー