はじまりも終わりもスポーツ紙
それが時を経たある日、森社長の人生を変える出来事が起きる。《スポーツ紙を見ると「たけし独立 社長に友人の森昌行氏?」という記事が載っている。私が社長? それはもう全くの誤報でした》(注3)。とはいえ、たけしの太田プロからの独立は事実で、せっかくだからと誘われて、森は制作部長としてオフィス北野に入ることになる。はじまりも終わりもスポーツ紙であった。
《たけしさんは今でも「俺は映画監督になりたいと思ったことはないし、映画に夢中になったことも一度もない。達成感も全くない。俺はそもそも一番やりたかったことをやって生きてない」と話しています》(注3)。森社長が10年ほど前に著したものの一節である。オフィス北野設立の翌89年、たけし主演の映画で監督が降板し、急遽たけし自ら監督することになる。望んではじめたわけでもない、たけしの映画監督業であったが、森も同様で、監督としてのたけしをマネジメントしただけで、映画プロデューサーになるつもりはなかったと続ける。
「世界の北野」と一流プロデューサー
それでもふたりはコンスタントに映画を作り続け、当初は批評家や海外での評価は高いが国内の興行はさっぱりであったのが、最近では15億円以上の興行成績を収める作品を世に出すにいたる。東宝ひとり勝ちのご時世にあって、非東宝配給でこれだけの成果をあげるのだから、たけしが「世界の北野」なら、森社長は森社長で一流の映画プロデューサーといえる。また、そんなふたりを、ひとは「二人三脚」と形容する。
しかし同じ道を歩いているようでいて、違った道を歩いていたのか、森社長はどっぷり映画の魔に憑かれていたようだ。たけし軍団の「声明」には、「東京フィルメックスにかかる人件費の問題」の指摘がある。これは森社長が2000年に始めた国際映画祭で、自分たちでアジアの映画の才能を発見していこうというこころざしによるもの。それにかかる年間数千万円の人件費をオフィス北野で肩代わりしていたという。