大前粟生さんの最新刊『チワワ・シンドローム』が話題です。炎上時代の「弱さアピール」に切り込む本作、「ケアの倫理」やジェンダーの観点から文学作品を読み解き注目を集めている小川公代さんはどう読んだのでしょうか。書評をお届けします。
***
『チワワ・シンドローム』は、人の感情に作用する“チワワ”という「弱くて可愛い」存在が、いかに人の心理に効果を発揮するかを、〈マジック〉のような鮮やかさで見せる。そのような手際のよさとは対照的に、SNSでの炎上や中傷など、今では私たちの日常の一部と化しているものが、当事者にとっては魂が削り取られるほどの傷になることが、粘り強く語られる。
大手人材サービス会社の人事部に勤める25歳の田井中琴美は、マッチングアプリでフリーランスのプログラマー、新太と出会う。二人の関係は少しずつ親密になっていくように思われるが、新太のシャツの袖にチワワのピンバッジが付けられていた小さな出来事を境に、彼は姿を消してしまう――〈これから、会わないようにしよう。僕のことはもう信じないで〉と謎めいたメッセージを残して。そんなときに琴美が心の拠り所とするのは、彼女の親友で、人気インフルエンサーのミアである。彼女は容姿端麗で頭脳明晰、かつこの上なく優しい。
その頃、新太のように、チワワのピンバッジが800人以上の人につけられる「チワワテロ」と呼ばれる事件が起きる。琴美が会社の入社面接を担当し、最終的には採用された優秀な大学生、観月優香にもその同じピンバッジが付けられていた。“チワワ”をめぐる謎が深まっていくにつれ、その事件をめぐるニュースが拡散し、チワワのグッズが発売されて人気を博するという消費社会特有の社会現象へと発展する。そして、新太の失踪という推理小説的なプロットは、ミアと観月との意外な接点や過去に起きたある事故の真相と共に読者の関心を惹きつけていく。
本作は「弱くて可愛い」チワワが話題を独占する現象の根底に潜むものを容赦なく暴いていく。刑事ドラマ的な展開であれば、おそらく殺人が起き、「チワワ殺人事件」と名づけられるところだろう。しかし、精神的な苦痛を生み出す“暴力”とその傷をめぐる愁訴の声が、大前粟生文学の真髄である。傷つけられた被害者はたしかにその返す刃で誰かを傷つけてしまいかねないほどの苦しみを味わう。琴美はといえば、被害者たちがその弱さを盾に加害性を孕んでしまうさま、弱者に寄り添い、あるいはそうするふりをして、歪んだ正義を振りかざすさまに戸惑いを覚えている。大前は、まさにその曰く言い難い思いを、「やすり」のような「ざらつき」という表現を用いて琴美の違和感を言語化している。