〈中山七里が締め切り間際に、担当編集者に依頼したある調査とは?〉

 巧妙に隠された伏線を想起させる帯文が目を引くのは、今注目を集めている名作ミステリー『テミスの剣』(文春文庫)だ。ドンデン返しの帝王・中山七里氏が2013年から雑誌『別冊文藝春秋』に連載し、17年にはテレビ東京で上川隆也、前田敦子らが出演しドラマ化。その後も文庫は版を重ね続け、渡瀬刑事シリーズ累計130万部を突破した人気作である。

テミスの剣』(文春文庫)

“戦後最大の冤罪事件”と『テミスの剣』の共通点は…

 舞台は昭和59年、浦和市で起きた不動産屋夫婦の強盗殺人事件から始まる。ベテラン刑事・鳴海と共に若手刑事・渡瀬がカネに困っていた青年・楠木を逮捕し、拷問まがいの尋問で自供を引き出す。そして公判で楠木は自供を翻すも、“突然都合よく見つかった”被害者の血の付いた上着が証拠として採用され死刑判決が下る。

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©AFLO

 絶望の中、楠木は拘置所の中で自殺を遂げたのだが数年後、別の強盗殺人事件で逮捕された男が楠木の事件も自らがやったと自白。県警は事態の隠ぺいを図るのだが、この冤罪事件が引き金となりさらなる殺人事件が起き、誰もが予想しなかった結末を迎える――というストーリーだ。

 奇しくも雑誌連載が始まった直後の14年3月には、1966年に起きた冤罪事件「袴田事件」により約50年間、拘留されていた袴田巌氏が釈放されている。自白を強要する連日連夜の厳しい取り調べ、突然見つかった血痕の付着した犯行着衣、証拠の捏造など『テミスの剣』と共通点は多い。作者の中山七里氏は袴田事件をモチーフに作品を書き上げたのだろうか?

担当編集者の答えは…?

「七里さんはもちろん事件のことはご存知だったと思いますが、『袴田事件』そのものを題材にしたというよりも、大阪地検の検事による証拠ねつ造など、当時いろんなところで明らかになりつつあった捜査機関の暴走を踏まえてアイデアを考えていかれたのだと思います」

 そう語るのは担当編集者の石井一成さんだ。年間10冊以上のミステリーを世に送り出す中山氏の創作には秘密があるという。

「七里さんはいつも連載をスタートする時点で、頭の中では最後の1行まで完璧に原稿ができあがっているんです。ですから、『テミスの剣』の連載が始まった後、『袴田事件』で半世紀近く拘留されていた袴田巌さんが釈放されたときには、七里さんの作品が現実を予見したような気がして『まさか』と驚きました。

最後のドンデン返しに繋がる“血痕”

 七里さんは、トイレは1日1回、睡眠もほとんどとらずに執筆をつづけることで知られていますが、一方で、たくさんの映画を見たり本を読んだりするインプットの時間も、原稿執筆とは別に確保されているそうです。常にインプットを続けることで、時代の一歩先をいくような、これから世の中で起きそうな事件や事柄を織り込んで作品を作っていくことができるのではないでしょうか」

 プロットができあがった時点で、最後の1行までできあがっている――こうした執筆スタイルゆえ、担当編集者の仕事は「ほとんどなかった」と、石井さんは言う。

「『テミスの剣』でお手伝いしたことは、たった1つだけです。“血痕”について“あること”が可能かどうか調べて欲しい、とご下問があったのです。科学捜査研究所の関係者に取材し、教わったことをもとに法医学の研究書を調べました。その取材結果を、七里さんに報告したんです。驚愕のどんでん返しに繋がる“あること”が何であるかは、実際に本書をお読みいただいて、『これか!』と驚いてほしいですね」

テミスの剣 (文春文庫 な 71-2)

中山 七里

文藝春秋

2017年3月10日 発売