他人にクソを投げていいのはTwitter上だけです
だからこそ、いまありのままに生きていられるこの瞬間が大事なのだ、と思うんですよ。朝一向に起きてこない子供たちに「ゴラァァァァ!!」と罵声を浴びせながら起こしている一瞬、あるいは大量に増えていく化石コレクションや解剖した魚やイカのプリントアウトの写真が所狭しと貼られた壁を見て幻滅する一瞬、どの人生の瞬間を切っても「その程度の問題で悩んでいる状況」こそが幸せの証拠であり、この瞬間をきちんと写真に収めておくことは後で振り返って「あのころは幸せだったのだなあ」と思うために必要なアイテムなんだろう、と。
一時は死も視界に入ったであろう川崎さんの、このコンセプトは良く分かります。自分の身に置き換えて、家内や子供たちを置いて先に逝くのは辛い。やっぱり、生きて、笑って、楽しくしている思い出を、脳内にではなく紙の上に、データの上に残しておきたい。やっぱり、いろんな家族旅行や日ごろの写真を見返して、ああ、この時期あそこに行ったなあ、こんなことあったなあ、と思ったりするわけですしね。記念写真もまた、日々の記憶のひとつとしてかっちりと残し、気持ちを繋いでいきたいと感じるのであります。
普段は木の棒持って泥だらけになって走り回っている拙宅三兄弟も、最近は少しは知恵がついてきて「食事中は立ち歩いてはいけないのだ」とか「電車のホームで通勤客に空き缶を投げつけてはいけないのだ」などの社会性がついてきました。父親としては、洋式便所で立小便して的を外してあたりを小便だらけにして小便臭い状態のまま放置するのはそろそろやめていただきたいと思う次第であります。他人にクソを投げていいのはTwitter上だけです。
まあ、結婚して10年ですからな……
しかし、そんな日々の苦労をよそに、ぴかぴかの写真スタジオでお揃いの服着て可愛らしく収まっている拙宅三兄弟を見ると、思ったより育ってくれたなあ、良く家内も頑張ってお世話してきたなあ、無理なく楽しく生きていってほしいなあと親として思うわけなんですよね。子供たち、普段は全然言うこと聞かないのにね。でも、コノジで仕上がってきたフォトえほんを見返すと、切り取られた現実のはずなのに、なぜか人として、親として胸が熱くなる瞬間がやはりあるんですよね。
しみじみと出来上がった写真を見ていると、さすがにプロの写真家だなあと感じます。私も家内も歳は確かに重ねているけれど、昔よりはるかに、穏やかで、落ち着いた夫婦になってきたなあとちょっとだけ思います。まあ、結婚して10年ですからな……。良い家庭生活を送ろうと夫婦で向き合って、無理に努力するわけでもなく自然体で取り組み続けてきたことで、円熟味が出たのかなと我ながら勝手に思うわけでありますよ。滅茶苦茶な私をどうにかしてくれた家内には本当の意味で感謝しかないのですが、さて写真の表情から伝わっているのかどうか。穏やかな日々を守るためにどうすればいいのか、改めて考えてしまうんですよね。