「具体的には、知り合いの女の子を、三重県志摩市にある渡鹿野島に売り飛ばしたことです」
日本で初めて国に「女性暴力団員」と認定された西村まこさん。彼女はなぜヤクザとなり、一体どんな人生を送ったのか? ヤクザとなった彼女が更生するまでの道のりを、初の著書『「女ヤクザ」とよばれて ヤクザも恐れた「悪魔の子」の一代記』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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国から「日本初の女ヤクザ」と認定されるまで
昭和に生まれた私たちの娯楽にとって、銀幕の映画が占めるウエートは大きかったと思います。当時、映画を観ようと思ったら、現在のようにネットが普及していませんでしたから、リアルに映画館に行かなければ観られませんでした。このころ、映画の封切り前には派手な手書きの看板やポスターが人目を引いたものです。
なかでもヤクザ映画は人気で、高倉健や菅原文太という往年の大スターたちが銀幕のなかで切った張ったの大立ち回りをしていたものです。私が映画館に行っていた時分には、まさか自分がヤクザの世界に入るとは、夢にも思っていませんでしたが。
私は女ですが、中学校二年のときに不良の友人に影響され、役人の真面目一本の父が強いる厳格な家庭の軛(くびき)から逃れました。その後は野に放たれた動物のように男友だちとケンカ三昧の日々を送るようになったのです。この荒んだ生活は50歳になるころまで続きます。
別にヤクザになりたくてなったわけではありませんが、時の勢いとは恐ろしいものです。気づいたら岐阜市内を縄張りとする杉野良一親分の盃を受け、杉野組若衆となっていました。
若衆というのは、れっきとしたヤクザです。歴史をひもとくと、女親分のような女性を見ることができます。近代でしたら、実話にもとづく映画『花と竜』に出てくる北九州の「どてら婆さん(島村ギン)」がいますし、三代目山口組の田岡文子未亡人も任俠界に名を刻んだ女傑と言えるでしょう。
しかし、彼女たちとは違い、私はヤクザ組織のなかで親分を親として忠誠を誓い、男たちと同様の役割を持つ組員として日夜活動してきましたし、当然、シノギ(営利活動)も持っていました。