――このときマダムシンコというネーミングが?
信子 仕掛け人は、幸治君なんですよ。なけなしのお金50万円を使って、私の宣材写真を撮影した。私は、こんなもったいないお金の使い方はしない方がいいって言ったんやけど、彼はアイデアマンやった。“元銀座のママが手掛けた洋菓子店”というキャッチを打ち出して、再び私にスポットを当てたんです。彼がいなかったら、今の私はない(笑)。その影響でメディアにも取り上げてもらって大行列ができたんです。
私は感謝の気持ちから、急遽、手作りの「サービス券」をお客さんに配り出したら、「そんな品のない売り方をするな」とパティシエたちから怒られた。ケーキ業界の慣例かなんか知らんけど、お客さんに愛想の一つもできないってどうなん? 私は常識にとらわれたくなかったから、結局、パティシエとは仲たがいして、また幸治君と二人きりになった。二人でも作れるものはないかと思って考えたのが、バウムクーヘンやったんです。そこから改良を重ねて生まれたのが、「マダムブリュレ」。
「邪道で結構」
――「マダムブリュレ」は、ヒョウ柄のパッケージに含め斬新ですよね。
信子 極貧だった子どもの頃、誕生日にお母さんが焼いてくれたホットケーキが年に一度の贅沢やった。「マダムブリュレ」は、懐かしい母の味をベースにしているんですけど、当初は「そんな“なく”ような商品はダメだ」と言われました。“なく”というのは、砂糖が溶けてじゃりじゃりするような食感のこと。そんなスイーツは常識としてありえないと。
でも、私は誰も真似せんのやったら勝ち目があると思った。邪道で結構。素人だからこそ作れる新しいもんがあるんです。ヒョウ柄のパッケージもそう。業界で通例となっているオレンジを採用するべきだと言われたけど、右も左もオレンジばかりで見分けがつかへんやんって。私はピンクで勝負したかった。
――「マダムブリュレ」は瞬く間に話題となり、大阪を代表するスイーツとして躍進します。どん底からの復活。七転び八起きですね。
信子 その後は、3億円の空き巣被害にもおうてるし。当時は、メゾネットタイプのマンションに住んでいたんやけど、2階にベランダがあって、そこから侵入されて、私らがいない間に全部盗られた。帰宅してドアノブを回したら鍵が開いていてね。最初は、「閉め忘れちゃう?」なんて思っていたけど、玄関に入って、廊下に幸治君のパジャマが散らばっているのを見た瞬間、すぐに「やられた」って。
――やっぱり分かるものなんですか?
信子 すぐ分かる。いつもと違うから怖いんですよ。 泥棒ってね、何から何まで全部出す。ベッドのマットもみんなひっくり返して、タンスというタンスは引き出しをすべて出してあった。炊飯器の中まで開いとったわ。頭使って隠したりするけど、泥棒にはそんなん通じへん。全部アウト。