関西では定番のスイーツ「マダムブリュレ」。その生みの親であるマダム信子(シンコ)の人生は、あまりに波乱万丈だ。自身の人生とクローゼットを公開したライフスタイルブック『私は女豹 Je Suis La Panthere』(主婦と生活社)では、極貧の子ども時代、北新地・銀座のクラブママ時代、夜の街を引退した後に始めた焼肉店時代を経て、洋菓子業界にたどり着いたことが明かされている。
狂牛病騒動でどん底、焼肉店が全焼、空き巣被害――。「一人だったら逃げていた」と語る彼女を支えたものは何だったのか。(全2回の2回目/最初から読む)
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――銀座の高級クラブのママとして上りつめたにもかかわらず、狂牛病騒動でどん底に。あの吉野家が、牛丼の販売を2004年2月から08年9月まで販売中止にしたほどの騒動でした。お二人の焼き肉店にも甚大な被害が?
信子 お客さんは来ない。売り上げも激減。スタッフも雇えない。挙句は「朝鮮人は出ていけ」なんて酷い言葉も浴びせられて。情けなくて、悔しくて。自分の選択に後悔はないですよ。でも、逃げたい、捨てたい……そんな思いにかられて。
夫の幸治君は、仕入れの途中に高速道路で車をぶつけられたこともあった。でも、病院に行けへんのですよ。「ママが働いているから、自分だけ休めない」って。キムチを漬けながら、「私みたいなおばさんを捨てて、幸治君はどこかに行ってくれたらいいのに」と何回思ったか。彼は私より19歳年下で、当時まだ30歳くらいですよ。いっそいなくなってくれたらって。
お母さんのところに、一度だけお金を借りに行ったことがあったんです。お母さんは、私にお金を投げつけ、「拾え」言うんです。泣きながら、「私も悔しい。その金のありがたみと重みを覚えとけ」って。帰るとき、バックミラーに映る杖をついたお母さんの姿を見て、自分はなんて情けない女なんだと涙が止まらなかった。
――再び、高級クラブの世界に戻ろうとは思わなかったんですか?
信子 何度も思った。また貧乏に戻ってしまって、周りからはボロクソに言われる。悔しくて、悔しくて。でも、絶対にやるべきことをやろうと決めたんです。毎日二人で一緒に働いて、終わったら喫茶店で話をして、24時間開いているお風呂に行って。信用できる人がおらんかったから、ずっと二人一緒。逃げない、捨てない、諦めないを合言葉にして。
私が逃げへんかったのは、幸治君が逃げへんかったからです。赤い糸があるのだとしたら、たくさん赤い糸がある中で、両端から二人が同じ糸を引いていることやと思います。だからね、こっちが引っ張るとあっちも引っ張られる。あっちが引っ張ると、こっちも引っ張られる。私たちはいつもそんなんです。