関西では定番のスイーツ「マダムブリュレ」。その生みの親であるマダム信子(シンコ)の人生は、あまりに激動だ。極貧の子ども時代を経て、高級クラブのママとして開花。夜の街から引退した後に始めた焼肉店は、狂牛病騒動によってどん底へ。
昨年12月に発売されたライフスタイルブック『私は女豹 Je Suis La Panthere』(主婦と生活社)では、逆転の舞台裏を支えた19歳年下の夫・幸治さんとの秘話も明かされている。その波乱万丈な人生について、話を聞いた。(全2回の1回目/続きを読む)
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――『私は女豹』というタイトルが示す通り、本日のお召し物もヒョウ柄。いつからヒョウ柄を身にまとうようになったのですか?
信子 水商売を始めた20歳くらいやったと思います。当時は、カルーセル麻紀さんのお仲間系のおねえさんたちがよくヒョウ柄を着ていて。私は、そういうおねえさんたちに可愛がられていたので、「絶対に似合うから」ってたくさんヒョウ柄のプレゼントをもらっていたんですよ。実際に着てみると、気持ち的にもフィットしてね。以来、毎日のように着るようになって、私の勝負服になりました。
幸運を呼ぶ柄だと思っているから、自宅もヒョウ柄だらけ。防火シャッターもヒョウ柄だし、キッチンのタイルもヒョウ柄。畳のへりもヒョウ柄にしているくらい。やるなら徹底的に極めんといかんよ(笑)。
――たしかに、ここまでヒョウ柄を徹底されていると気持ちがいいくらいです(笑)。『私は女豹』では、ご自身の人生も振り返っています。まさに激動の人生です。
信子 自分自身を振り返る、とても貴重な機会でした。走馬灯やないけど、人生を思い返してしまった。こんなこともあったんや、あんなこともあったんや……反省することもたくさんあって、まだまだがんばらなあかんなって。
極貧だった少女時代
――子どもの頃はとても貧しかったとお聞きします。
信子 極貧も極貧。小っちゃい頃からリヤカーを引いて、養豚場のエサとなる残飯運びをしてました。それで生計を立てるも、着るものはいつもボロボロ。食べるものは、豚のために集めた残飯。井戸から水を汲んで、それを豚にやって。掃除してたら、豚が逃げて、それを追いかけて。ほんまに思い出します。お父さんは自由人間やったから、お母さんと長女の私が中心になって支えていましたね。