「勝った時は天国でも、負けたら地獄ですよ。自分の体験を振り返ってもね。選手の時は昭和37年と39年の2回優勝しましたけど、指導者になってからは散々でしたわ。昭和60年に日本一になっても、その2年後には3割3分1厘という最低勝率の地獄を味わったでしょう。1回目、3回目の監督も含めてね……終始一貫、負ける時は、上とのそういうものが起こるものだと感じていましたね」
初めての監督は1975年だった。ヤンキースの“ケンカ屋”ビリー・マーチンがつけた背番号「1」をもらい、氏さながら情熱的に指揮を執った3年間の成績は3位→2位→4位と一定の結果を残すも、1年目のオフには、エースとして一時代を築いた江夏豊がトレードで退団。2年目のオフには田淵幸一の起用法で対立し、懐刀だった辻佳紀ヘッドコーチが退団。
3年目。年俸の査定問題で選手から「監督にダマされた」という不満の声が出ても球団は知らんぷり。対立する反吉田派のマスコミからは「吉田はタバコの一本一本に名前を書いている」「水虫の治療費も経費で球団に請求している」とドケチのキャンペーンを張られて解任。ケチョンケチョンにされた悔しまぎれに辞任会見で「阪神タイガースは永久に不滅です」とやったが、ウケはいまいちだった。
2期目は10年後の1985年だ。前回の反省を踏まえ“一蓮托生内閣”を掲げ「土台作り」を宣言するも、あまのじゃくなトラは1年目からいきなり超攻撃打線が爆発して日本一になってしまう。
それならば、いよいよ黄金期が到来するのかと期待した途端、まさかの直滑降が待っていた。翌年は3位でまだよかったが、バースは「ヨシダの作戦はワンパターンや」と采配を批判し、掛布は骨折で離脱。頼りの米田哲也投手コーチが吉田のもとを去った。明けて87年。シーズン前にバースがスピード違反。掛布が飲酒運転で暗雲が立ち込めると、久万俊二郎オーナーは「うちの4番は欠陥商品。野球選手以前に人間として失格」と断じて大きく禍根を残し、掛布は開幕から大不振に。
コーチとの関係もおかしくなり、竹之内雅史コーチが職場放棄からチームを去る。新聞では事あるごとに「吉田、辞任」の文字が連日のように躍り、マスコミは“吉田おろし”の大合唱。一蓮托生は無残に崩れ、甲子園のスタンドからの罵声に晒された吉田の心身は限界を超えていた。
1985年、阪神タイガースが日本一になれたワケ
ある試合後、しつこくつきまとうカメラマンに、フラッシュ撮影の妨害をしてやろうかと思わず「傘さしたろか」とイヤミを言い放ったところ、翌日の新聞に「吉田、『傘で刺したろか』と脅迫」と出た時は泣きたくなった。