選手、監督、フロント、そして時にはファンも巻き込んでお家騒動を繰り返してきた阪神タイガース。幾度となく内紛が起きた負の歴史を紐と解くと、歯車が狂い始めたのは1955年、わずか33試合でチームを追われた“謎の老人監督”解任劇だった――。ここでは『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』(集英社)より一部抜粋。当時を知る吉田義男元監督(90)に、約70年前の“負の歴史的転換点”を尋ねた。(全2回の後編/前編を読む)

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吉田義男が仕えた8人の監督たち

 タイガース人生六十余年。思惑と怨念が渦巻くこの“虎の穴”で、吉田義男が仕えた監督は8人にのぼる。1953年、入団した時の松木謙治郎には親分としての器の大きさがあり、この人がいなければ牛若丸は誕生しなかったとまでいえる恩人だ。天覧試合の指揮を執り、感激の涙を流したハワイ帰りのカイザー田中(義雄)、いろいろ問題が多く選手に2度も殴られた金田正泰。2リーグ制で初の優勝監督となった天下の名将・藤本定義は吉田が最も長く仕えた監督だ。

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©文藝春秋

 その後は中日ドラゴンズの大エースだった杉下茂。現役最後の監督にして“犬猿の仲”と散々言われた村山実とともに兼任コーチを務めた後藤次男は“つなぎの監督”を自覚して1年のみ役割を全うした。幾人もの監督が、打倒巨人とタイガースの復権を掲げ、ペナント制覇の夢を大いに語っては苦闘し、心身を擦り減らし、志半ばで去ってゆく姿を見てきた。

 そして“ミスタータイガース”藤村富美男だ。幼少期から吉田が憧れ、入団したきっかけにもなったタイガース史上最高のスーパースター。彼が見せる表向きのショーマンシップと、その半面にあったスターゆえの寂しさを想う時、吉田は今でも胸の奥にチクリと痛みが走るという。

「ぼくもね、タイガースで育ってきた歴史のなかでね、汚点というか、なぜあの時そんなことをしてしまったのだろう……という後悔みたいなものがあるんです。特に藤村さんのことはね。うん。どうしようもなかったという理由もありますが、今でも……自分としては悔やんでも悔やみきれない、後ろめたい思いをずっと残しているんです」

なぜ吉田は“藤村排斥事件”に名を連ねたのか

 吉田の言う悔いとは、1956年オフに起きたタイガースの歴史上、最も衝撃的な事件といっても過言ではない“藤村排斥事件”である。大スターであり兼任監督だった藤村富美男に対し、主力選手たちが反藤村の旗を掲げ、権力の座から追い落としたこの事件で、吉田は排斥派の若手筆頭として名前を連ねている。