16歳で父親と絶縁、歌手として駆け出しの頃はマネージャーに給料を持ち逃げされたことも…。ドスの利いたハスキーボイス。情感を切々と歌うスタイルで日本人から愛された大スター・八代亜紀さんの人生を2回に分けてお届け。朝日新聞編集委員で、昨年10月に亡くなった小泉信一氏の『スターの臨終』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/続きを読む)
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町中華のラーメンが大好き
オシャレな街並みが続く東京・自由が丘。駅から八代亜紀の事務所まで歩いて十数分かかる。結構な距離だが、何度も歩いて通った。肉屋、蕎麦屋、総菜屋……。商店街のあちこちで、八代のポスターを見かけた。新曲の発売やコンサートがあると、地元の人たちが応援してくれるのである。
閑静な住宅街だが、少し離れた場所には八代行きつけの町中華もあった。海外でのコンサートなど少し日本を離れただけでも、帰りの飛行機の中で「あー、食べたい」。そう思ってしまったそうである。シャキシャキのモヤシがたっぷり入った熱々のラーメンが大好物。フーフーと言いながらスタッフと一緒に食べるのが恒例だった。近所のおじさんがギョーザをつまみにビールを飲んでいるような庶民的な店だった。
天下の大歌手なのに、偉ぶらなかった。いまも筆者がよく覚えているのがコロナ禍の2020年6月に取材した日のことだった。この日は梅雨の中休み。黄色いヒマワリの花が事務所の中庭に咲いていた。それまでは数千人規模の大ホールでのコンサートを普通にこなしていた。昼と夜の2回公演でもチケットはほぼ完売。コロナ禍の影響でコンサートは軒並み中止になったが、「この先、きっとよくなるから」。そこには明るい、いつもの八代がいた。
事務所の案内で神奈川県箱根町にある別荘を訪ねたことがある。この日、八代は不在だったが、八代専用のアトリエがあった。描き始めるのは午後から。夕食を挟み真夜中から未明まで絵筆を握るそうである。スタッフがコーヒーを持ってきても、全く気づかないこともあったそうだ。
子どもの頃から好きだった絵画。もう一度、独学で始め、49歳のときフランスのル・サロン展で銅賞を受賞した。
「例えて言うなら、時計の振り子。歌に没頭したら今度は絵画。大きく振れることで疲れた心を癒やすことができるし、力が湧くんです」と八代は話した。
きらびやかなイメージの一方、コツコツ努力を重ねる人だった。ステージが終わった夜は、必ずその日の舞台のおさらいをする。ベッドの中でヘッドホンをし、その日、ステージ上で録音した自分の歌を流し、舞台の様子を思い浮かべたという。
「そうしないと眠りにつくことができないの」
ちゃめっけたっぷりの笑顔でそう話していたことを思い出す。
八代の故郷、熊本県八代市にも取材に行ったことがある。彼女が10歳のころ父親が脱サラして運送会社を始めたが、経営は火の車。いつも太陽みたいに明るく笑っていた父親が、苦渋に満ちた表情で帳簿とにらめっこしている姿を見て、「少しでも助けたい」と幼い八代は思った。高校進学はあきらめ、地元の交通会社に就職してバスガイドになった。