真っ白なブラウスに紺の上着。両手に白い手袋をはめ帽子をかぶると、立派なバスガイドである。だが、現実は甘くはなかった。いざマイクを握ってアナウンスすると緊張して手は震えるし、観光名所の名前は間違えるし。そのうえ車庫に戻ったらバスの掃除。

 中学時代の同級生らからは「制服、かっこいいじゃない」と冷やかされ、恥ずかしくてたまらなかった。

抑えきれなかった「クラブシンガーになる夢」

 その一方で、クラブシンガーになりたいという幼いころからの夢が、だんだんと膨らんだ。入社して3カ月目くらいのとき、地元のアーケード通りにある「白馬(現・ニュー白馬)」というグランドキャバレーが歌手を募集していることを知った。

ADVERTISEMENT

 18歳と偽ってオーディションを受けたら「専属歌手でお願いしたい」と採用が決まった。両親には内緒で、翌日、バス会社に辞表を提出した。

 それまでの八代は、父親譲りのハスキーボイスを「嫌な声だな」としか思っていなかった。だが、キャバレーで歌い出すと、店の雰囲気ががらりと変わった。客が立ち上がり、八代の歌に合わせてダンスを始めたそうである。「私って、いい声なんだ」。自信を持てた瞬間だった。

「舟唄」「雨の慕情」など大衆に支持されてきた八代演歌は、どん底からはいあがってきた人間の凝縮した怨念が一挙に燃焼した閃光と言えるかもしれない。キャバレー勤めがバレ、「お前はいつから不良になったんだ」と父親から頬を叩かれた。

 勘当され、単身上京。16歳のときである。キャバレー白馬こそ、歌手・八代の原点だろう。2015年、プロモーションビデオの撮影に白馬を選んだ。

 10代で家を飛び出し、二度と帰ることはないと思っていた故郷・熊本。「いつか恩返しをしたかった」と八代は語った。

 1966年、日本が高度成長へと駆け上っていた頃、八代は新宿の“美人喫茶”で歌手兼ドアガールとして働いた。フロア中央にピアノがあり、スタンダードジャズやムード歌謡などを歌った。その後、銀座のクラブシンガーを経て、71年9月、テイチクから「愛は死んでも」でデビューする。

長い下積み、遅咲きだった歌手人生 ©文藝春秋

 下積みが長かっただけに、遅咲きと言っていいだろう。だが、レコードは全く売れなかった。重いトランクを提げて「キャンペーン」と称するドサ回りの日々である。給料をマネジャーに持ち逃げされたこともあった。

 借金100万円。目の前は真っ暗。でも、歌手をやめようとは思わなかった。

次の記事に続く 「なんで! なんで! なんでなの?」突然の死に小林幸子も動揺…病気発覚から5ヶ月で死去、日本中から愛された大物歌手「八代亜紀(享年73)の最期」

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。