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阪神タイガースはなぜ延々とお家騒動を繰り返すのか? フロントと選手が暗闘を続けるきっかけになった“負の歴史的転換点”

『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』より #2

2024/04/09
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「ぼく自身、まだ若手で試合に出ることだけで精一杯。必死な時でしたから、正直、岸一郎さんが、どこから来たのかもわからなかったですし、どんな采配をして、何か話をしたのかすら印象もなくて……気がつけばスッといなくなられていたような記憶です」

共に生活をしても岸一郎やその娘とのやり取りはほとんどなかった

「タイガース再建論」を唱え、「血の入れ替え」として若手を重用し、日本で初めて投手ローテーションの原型を作ったという話もあるようだが。

「いやいや……ぼくや三宅は松木さんに使ってもらったんですよ。投手ローテーションの話は藤本定義さんやないですかね」

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 まぼろしか、幽霊か、蜃気楼のような記憶。それはグラウンドの中だけではなかった。

「あ……そういえば、あの時、甲子園の三番町におそらく電鉄の重役さんが住んでいた大きな邸宅があったんです。そこに岸さんと、ぼくよりもちょっと下のきれいなお嬢さんが父娘でお住まいになっていましてね。ぼくたちも同宿させてもらっていたんです。いま考えれば大変なことですけどね」

 合宿所がまだ完成していない昭和30年当時。若手選手は通いや、甲子園球場の2階の空き室、近所の旅館などに分宿していた。そして三番町にあった阪神電鉄の大きな社宅には、岸父娘と若手のホープである吉田のほか、小山正明と三宅秀史、渡辺省三、西尾慈高らが同居していた。ただ、ひとつ屋根の下で生活していても、岸一郎やその娘とのやり取りはほとんどなかったという。

©文藝春秋

「家でもごはんを一緒に食べるわけでなし、まかないはお手伝いさんが2人いたので、ほとんど接触もしていないと思うんです。ただ……家でも寝る時に虎のマークのついた白いジャンパーを着ておられてね。それがよく似合っていたんですよ」

 まるで子供のようにタイガースのジャンパーを家でも着込むとは、よほどうれしかったのだろうか。それともご老体ゆえの寒がりだったのだろうか。興味は尽きない。

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