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 だとしても、耐え抜くのだ。地を這ってでも、顔面を泥だらけにしても耐え抜く決意でペナントレースを完走。結果は球団ワーストの勝率3割3分1厘で最下位だった。「ズームイン!!朝!」で辛坊治郎が「なんぎやなぁ」とやって流行語大賞にノミネートされる頃、岡崎義人球団社長からの「君の名誉のために辞任ということにしよう」という提案を断り、吉田は“解任”される。3年で天国と地獄の両方を味わった。

「まぁ……負ける時なんてそんなもんや思いますけどね。それよりも勝った時ですわ。1985年の日本一になった時を振り返ってみると、表には見えてこないところに勝因があったんです。つまりは本社からのバックアップですね。特にぼくを支えてくれたのは当時の本社取締役だった三好一彦さん。神戸大学の野球部キャプテンで、同じ昭和28年にタイガースに同期入社した人でしてね。久万オーナーが『野球がわかるやつは三好しかおらん』いうて任せてくれた。ぼくと三好さんは絶えず話し合っていました。

 毎週一回、ホテル阪神で必ずミーティングをして、チーム方針が決まれば、口だけじゃなくて金銭面から人事面まで、全面的にバックアップしてくれた。あの年はコーチ陣も含め、一蓮托生じゃないですけどね。信じること。全員同じ方向を向いて、そういった信頼感や絆を深められたことが、結果につながったんやないか思っています」

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©文藝春秋

「マスコミも加わってウソもまこともごちゃまぜですわ」

 吉田義男の最高点であったこの1985年。そして、フロントから改革した星野仙一の2003年。岡田彰布の2005年と、優勝した年の資料を漁れば、その年のタイガースがいかにフロントと現場が同じ方向を向いて頂点を掴んだか……なんて成功談をたやすく見つけることができるだろう。だが、そこは生身の人間がやること。現実はそんなに簡単じゃない。

「そうそう。これはわかっていても、なかなか簡単にはできるもんやないんです。タイガースはやっぱり人気があって、勝たなければいけないという使命がある。そのためにいろんな人がいろんな思惑を持ってね、蠢くでしょ。そこにマスコミも加わってね。ウソもまこともごっちゃまぜですわ。ぼくも散々叩かれてきましたけど、大きな組織のなかで終始一貫、足並みを揃えて、同じ方向を向いてというんは、やっぱり歴史を振り返ってみてもなかなか難しいことがわかりますよ」