工場は朝8時には朝食をすませて、8時半には工場に出勤しないといけません。だだっ広い場所に並べられた長机に座って食事ですが、ご飯から味噌汁まで、トレーの上の皿に、自分でよそって持ってこないといけません。無言の食事は家では慣れていましたが、ここでは違う意味で厳しい食事タイムでした。
ただ、少年院や刑務所でも食事が苦になりませんでした。昔から食べるものに執着がなかったことが幸いしました。工場のお三度は、お世辞にもうまいとは言えなかったからです。
ほかにも、不良という女工はいましたし(いちおう、クリクリパーマみたいな頭をしてイキっていました)、私のことを「生意気だ」と言う男子工員もいました。
私たちミシンの子だけではなく、デザイン、パターン、アイロン、裁断と、さまざまな部署がありましたから、そこで働く人も老若男女で十人十色です。出身地もさまざまな人がいました。なかには私に文句を言う人もいたようですが、面と向かって文句を言ってくる根性のある人間はいませんでした。
とはいえ、工場のミシンは同輩より上手だったと自負していました。真面目だったころに実家の足踏みミシンを踏んでいましたし、手先は器用なほうでしたから、与えられる作業はまったく問題なかったのです。だから、怒られることもなく、まったく合わない退屈な仕事を数ヶ月も続けました。
人生最大のおもしろくない地獄の期間
驚いたのは給与額です。2回給与をもらいましたが、給与額から所得税や雇用保険、強制貯金、寮費を引かれたあと、手のひらに載る金額を見たときには愕然としました。
「朝早くから一日働いて、こんだけしか手のひらに載らないの……」とショックを受けたものです。ついにシビレを切らして、私は公衆電話から(暴走)族の先輩に電話して迎えに来てもらうことにしました。脱走は夜にこっそり行いましたから、最後の給与はもらっていません。そのときは、お金より自由が欲しかったのです。この工場勤務は、のちに経験する刑務所以上に人生最大のおもしろくない地獄の期間でした。