父としては“最後の更生チャンス”だったけれども……日本で初めて国に「女性暴力団員」と認定された西村まこさん。まだ暴力団に入る前、中学を卒業したばかりの彼女が、父が選んだ就職先のスラックス工場からわずか数ヶ月で脱走した理由とは……? 初の著書『「女ヤクザ」とよばれて ヤクザも恐れた「悪魔の子」の一代記』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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悪魔の子、就職する
中学校卒業後は、私に手を焼いた親が勝手に決めたレールに載せられました。それはスラックスを縫製する岐阜市内にあった工場への住み込み就職でした。
昭和60年代(1985~1989年)の金のタマゴ・就職列車ではありませんが、住み込みの女工ですよ。父から一方的に言いくるめられ、自家用車に拉致され、有無を言わさず工場に連れていかれての就職です。おそらく、父としては最後の更生チャンスとばかりにスイッチが入ったのだと思います。
工場の住み込み寮の部屋は4、5人の雑居です。そこに来ていた女の子たちは、ひと言でいうと「イモ姉ちゃん」でした。まったく話が合いませんから、私はすぐに無口になりました。向こうも私の存在が異質で、煙たかったと思います。ですから、あえて話しかけてくることはありませんでした。
上長は私が不良だったといういきさつを知っていたようで、いつも「どうや~、どうや~」と声をかけてきていました。私は、どうやって逃げ出そうかということばかりを考え、上長には「はあ」とかしか返していませんでした。あと、専務がいい人――というか、お節介なオジサンで、私が仕事を休むと部屋に見舞いに来てくれていました。
さらに、私を更生させようと、いつも励ましの声をかけてくれていました。いま考えると申し訳ないのですが、その気づかいが、若い私にはかえってうっとうしかった記憶しています。