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決勝が行われる元日の朝、今泉は自宅のある新横浜から国立競技場に入った。明治神宮外苑に隣接した国立競技場の一帯は人気がなく、凜とした空気だった。

「朝の9時ごろ国立(競技場)に一歩踏み入れたとき、風が冷たかったことを覚えています」

「天皇杯では負ける気がしなかった」

昨年の同じ日、ここにマネージャーとして来たことを思い出した。

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「(元監督の)オタシリオは決勝まで行くつもりがなかったんです。ここら辺で負けるだろうとオタシリオたちブラジル人スタッフの帰国便を手配していた」

そのことを知った日本人選手たちが、あいつらふざけんなよっ、絶対に元旦までひっぱってやるって言っていたんですと苦笑いした。決勝の主催は日本サッカー協会であり、自分たちの仕事はない。マネージャー時代と同じようにベンチ裏で観戦するつもりだった。

選手、現場のスタッフたちは国立競技場から約6キロ離れた港区白金台にある都ホテルに宿泊していた。ホペイロの山根は荷物運搬用の車で選手たちよりも先に会場に入り、準備を始めた。

「試合用のユニフォームはロッカーに入れて、練習着は長椅子、その下にスパイクを並べる。この日は延長戦、そして表彰式もあるので4枚用意していました。試合前から置いておくと、くしゃくしゃになってしまうのでロッカーには2枚だけ、残り2枚は廊下に置いていました」

天皇杯では負ける気がしなかったと山根は言う。

「準々決勝でジュビロと準決勝でアントラーズという強いチームと当たりましたが、怪我人さえ出なければ勝てると思っていました。一度練習中にアツ(三浦淳宏)さんが足首をやってしまい、ピリついたことがありましたが、それ以外、怪我人は出なかったはずです」

残り少ない仲間との時間を愛しむ気持ち

試合当日の朝、都ホテルの食事会場には選手が三々五々集まった。部屋には大きなテレビが設置してあった。監督のゲルト・エンゲルスは空から撮影した国立競技場の映像が流れたことを覚えている。各テーブルを回って、選手たちと言葉を交わした。