日本の“原風景”のごとく、ビルの屋上や国道沿いに存在している「バッティングセンター」。しかし、バッティングセンターがなぜ作られて、どのように日本で広まったのかを知っている人は、どれほどいるだろう。

 ここでは、著者のカルロス矢吹氏がバッティングセンターを訪ね歩き、そのオーナーの生き様やバッティングセンターの歴史を綴った『日本バッティングセンター考』(双葉社)から一部を抜粋。イチローとストラックアウトの登場がバッティングセンター業界に与えた影響について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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バッティングセンターに訪れた危機

 70年代中盤から訪れた第2次バッティングセンターブームは、80年代に入りやや落ち着きを見せる。ファミコンの誕生などに代表される趣味の多様化も影響していたと思う。とはいえ、日本経済が好調なこともあって、全国的に見ても経営を維持できているバッティングセンターがほとんど。まだまだこの時期に開業するバッティングセンターも多かった。

 では、バッティングセンターに危機が訪れた、その引き金はなんだったのか。

写真はイメージです ©iStock.com

 それは1993年のこと、Jリーグ開幕であった。

 日本初のプロサッカーリーグとして発足したJリーグは、93年5月15日にヴェルディ川崎vs横浜マリノス(両チーム共に当時のチーム名)の試合で開幕した。試合会場の国立競技場には6万人近い観客が来場し、その模様はNHKで全国に中継され、瞬く間に一大社会現象となっていった。

 極め付けは同年10月28日にカタールの首都ドーハで行われた94年FIFAワールドカップアジア地区最終予選、日本vsイラクの試合だ。現在では「ドーハの悲劇」と呼ばれるこの試合は、試合終了間際まで日本が2-1でリードしていながら、ロスタイムにイラクに同点ゴールを決められ、日本初のワールドカップ出場を逃すという劇的な展開であった。

 この試合のテレビ中継は、日本時間で深夜のキックオフだったにも関わらず、視聴率48.1%を記録。国民の半数近くが視聴し、日本国内がサッカー人気に沸きに沸き続けた1年であった。

 93年の「新語・流行語大賞」の年間大賞も当然の様に「Jリーグ」が選ばれ、次点に該当する新語部門・金賞もJクラブを応援する人々を指す「サポーター」が選ばれた。

 バッティングセンターは、この熱狂の煽りをモロに受けてしまったのだ。