日本の“原風景”のごとく、ビルの屋上や国道沿いに存在している「バッティングセンター」。しかし、バッティングセンターがなぜ作られて、どのように日本で広まったのかを知っている人は、どれほどいるだろう。
ここでは、著者のカルロス矢吹氏がバッティングセンターを訪ね歩き、そのオーナーの生き様やバッティングセンターの歴史を綴った『日本バッティングセンター考』(双葉社)から一部を抜粋。大リーグ・エンゼルスの大谷翔平も通ったという、前沢バッティングセンター(岩手県奥州市)について紹介する。(全2回の1回目/後編に続く)
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前沢バッティングセンター
バッティングセンターは、オーナーの野球への情熱から生まれることもあれば、良い意味での山っ気から生まれることもある。
平治元年、西暦で言うと1124年。奥州藤原氏初代藤原清衡が、平泉の地に中尊寺金色堂を上棟した。「金色堂 上下四壁は皆金色なり」と当時の文献にも記されている通り、中尊寺創建当初の姿を今に伝えるこの建造物は、現在に至るまで変わることなく黄金色の輝きを誇り続け、現在は国宝にも指定されている。
そして、中尊寺から国道4号線沿いに北上すること約10km。奥州市前沢区と水沢区の境目。ここにも、鮮やかなグリーンのネットが陽の光を帯び、国宝級の眩しさを放つ建造物が存在する。前沢バッティングセンターである。
田園地帯の真ん中に屹立し、「カラオケ」「レストラン」「レンタルルーム」など、数多くのレジャー施設に囲まれ、その中心に「バッティングセンター」が鎮座する。オーナーの小林長男は、ここを“建立” するまでの経緯を淡々と語り始めた。