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「あんまり目立つ子じゃなかったですねえ。お兄さんの方が目立っていた」大谷翔平も通った“国宝級の輝きを放つ”バッティングセンターの歴史

『日本バッティングセンター考』より #1

2022/03/24
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「私の生まれは一関市なんです、ここからは隣町のね。私は1950年生まれで、兄弟が多くて、12人いるんですよ。で、一番末っ子なんですね。今一緒になっている女房が一人っ子なので、もらうわけにもいかないから婿養子に入って。それで間も無くして、働いていた会社、工事を一手に引き受ける様な会社だったんですけど、そこがバッティングセンターを作る様になったんです。70年代の真ん中くらいかな。

 東北6県全部、北海道も行ったな……。ピッチングマシンから建物まで全部作ってました。最初にやったのは、福島県のバッティングセンター。図面通りに作ったんだけど、“本当にこんなの商売になるんだろうか?”と。

 そう思っていたら、もうオープンしたら長蛇の列で。そこのオーナーが10万円分小銭でお釣りを用意していたんだけど、午前中でなくなっちゃったんですよ。当時の10万円ですよ? それぐらいお客さんが来て。そしたらそれを見た人達が“俺もやる!” “俺もやる!”ということで、次々、次々、工事をやっていったんですよ。

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 次に工事に行った宮城県のバッティングセンターも、それ以上の凄い行列が出来て。大流行りでとんでもないことになったから、横の山を切り崩してすぐ増設して。それをまた別の人が見るじゃないですか、それでまた寝る間を惜しんで作りに行って。作るとこ作るとこ、大流行りでどうしようもないわけですよ。

 “こんなに流行るんなら、自分でやった方がいいんじゃないか”と思って、そしたらたまたま4号線沿いにある土地が使えるということなので“自分でやろうか”と。そうしてこの商売を始めようと思ったんです」

オーナー・小林長男が会社員との二足のワラジで始める

 第2次バッティングセンターブーム期らしい、景気の良い話である。聞いているだけで気分が良い。だが、小林の野望には会社から横槍が入った。

「働いていた会社の社長からしたら、私に辞められたら困るわけですよ。建設から修理まで全部私ですから。だからそこで交渉をして、“会社を辞めないという条件ならやっていいよ”となりました。“わかりました”ということで、3日か4日あればバッティングセンターは作れますから、作れるんですよ私は。

 建てたら(運営は)女房の方に任せて、私は会社の仕事がありますから機械が故障した時だけ出ることにしました」

前沢バッティングセンターのオーナー・小林長男氏(著者撮影)

 そうして会社員との二足のワラジで始めることになった前沢バッティングセンターのオープン日は1977年9月23日、奇しくも小林の愛する読売巨人軍がセ・リーグ連覇を決めた日であった。その2日前、地元新聞に、小林はこんな広告を掲載している。