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 主な顧客層であった子ども~若年層がJリーグに飛びつき、多くのバッティングセンターでは閑古鳥が鳴き始めた。キンキクレスコ会長の堀川三郎は、Jリーグ人気が沸騰していた93年から94年にかけての2年間を振り返って、こんな手記を残している。

 一昨年にスタートしたJリーグブームでこの2年間は野球界は言うまでもなく我々バッティング業界にとりましても大きな影響を受ける事になりました。平成4年度をピークに安定した経営で推移したバッティングセンターも5年度はサッカーブームで子供達の野球離れに拍車をかけバッティングセンターも子供達の姿が少なくなり売上げも大きくダウン致しました。(「クレスコバッティングNEWS」平成7年2月号)

 自らも店舗を経営し、日本中のバッティングセンターの施工に関わってきた堀川の証言だけに、“野球離れ”の影響は全国規模だったことがうかがえる。だが翌94年、このバッティングセンターの危機を救うスーパースターが野球界に登場する。

 イチローこと、鈴木一朗が大ブレイクを果たしたのがこの年であった。

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イチローの登場

 オリックスブルーウェーブ(当時)に所属していた若干20歳のイチローは、94年シーズンで210安打を放ち、当時の年間最多安打記録を樹立。代名詞とも言える“振り子打法”や背面キャッチなどの華やかなパフォーマンスも手伝って、一躍時代の寵児となった。

 そんなイチローがメディアに登場する度に語られたのが、父と一緒にバッティングセンターに通っていた、という幼少期のエピソードだ。これに触発された全国の子ども達がこぞってバッティングセンターに足を運び、それまでの空白を埋める様にバッティングセンターは息を吹き返していった。

イチローが幼少期に通った愛知県の「空港バッティング」。稲葉篤紀も常連だった(著者撮影)

 イチローの功績を称えて、堀川三郎が会長を務める全国バッティングセンター連盟協議会は彼に感謝状を贈呈することに決めた。当時あらゆるイベント出席を断っていたイチローも、感謝状を受け取ることでバッティングセンターへの恩返しを果たした。

 再び、堀川の手記から引用する。

 イチロー選手がテレビ等で子供の頃から毎日のようにバッティングセンターに通い練習をしたと報道されてから急に親子連れの子供達が増え全国のバッティングセンターから喜びの連絡が多く入ってまいりました。

 そしてあちらこちらからイチロー選手に我々業界から感謝の気持ちを伝えたいとの声が上がりました。オリックス球団も大変ありがたい事だと快諾を得て全国のバッティングセンターの経営者の皆様に集まっていただき感謝と激励のパーティーのお知らせの準備を致しておりましたが球団からイチロー選手のイベント出席はほとんど辞退している状態なのでその手前あまり派手になると問題が生じるので全国ブロックの代表者に集まっていただければとの意向の連絡が入りやむをえず事前にご相談した方に無理を言って急拠ご出席をお願い致しました。

 当日イチロー選手は「多くの受賞の中にも本当に嬉しい賞です感謝するのは僕の方です」と出席者に記念撮影やサインに応じてなごやかな雰囲気の贈呈式となりました。(「クレスコバッティングNEWS」平成7年2月号)

 こうしてみると、イチローは「バッティングセンターがちゃんと野球の練習にもなるんだ」ということを体現してくれたのだと思う。バッティングセンターは遊びだけではない、真剣にやればその打席はプロ野球どころかメジャーにも続いている、それを担保してくれる存在となった。

 彼は2019年に引退するが、今もなおイチロー人気は高く、「イチローは小さい頃にバッティングセンターで練習していたんだから」という逸話は野球に励む少年少女達の常識である。