杏が育った過酷な環境を、殺伐とした団地のカットのみで的確に伝え、前半では杏がそこから脱出する更生の道筋を、後半では一転して社会から隔絶されるさまを描きだす。
彼女を支える人たちが次々に現れ、母の妨害に遭いながらも、着実に更生の道を歩む前半部はとくに感動的だが、観る人をいたずらに感涙させ、その気持ちを弄ぶようなことは決してしない。
杏を見つめる視点は、彼女に共感を寄せつつ、また彼女と一定の距離をとっている。慎重で、あくまで客観的だ。
そして透徹した視点により、人を描き、社会を描くことに成功している。
おそらく根底には、事件を生みだすのは社会だという、伝統的な社会派映画の視座があるのだろう。だからこの映画は、杏の姿を周囲の人たちや社会とのかかわりのなかに映すことを怠らない。
コロナ禍で鮮明になる孤立
自助グループが閉鎖され、介護の仕事ができなくなり、夜間学校が休校する、そんな後半部の展開が杏の孤立を鮮明にするのは、杏と社会のかかわりを丁寧にたどるからこそだ。
それと同時に、人を描き、社会を描くというその視座は、人物描写の仕方にも表れている。多面的な人物描写が、そのまま複雑な社会の描写になっている点は秀逸だ。
たとえば佐藤二朗扮する多々羅は、難物を絵に描いたような異端の刑事だが、薬物常習者の更生には真摯で、自立しようとする杏のために労苦を惜しまない。彼女が生活保護を申請するときなどは、定職に就かず、義務教育を放棄したのは自己責任だと説く職員に憤り、親身な一面を見せる。
佐藤二朗演じる刑事が象徴する現代社会の姿
だが一方で、彼には自助グループを私物化し、参加女性に性的関係を強いた疑いがあり、非道な横顔ものぞかせる。
あるときは情け深く、あるときは無慈悲。
その多々羅の人物像は、考えてみれば、杏が向き合う現実社会の姿そのものでもある。と同時に、それはコロナ禍になり、あらためて多くの人たちが実感した社会のありようでもあるだろう。