1ページ目から読む
2/2ページ目

 私は2年の予定でカイロに来ましたが、旅行ガイドのアルバイトをするようになり、そのままカイロで暮らしていた。すると1975年の年末、あなたから「また北原さんと一緒に暮らしたい」と言われ、驚きました。Bさんと離婚して行く場所がないと困っている様子でしたね。

 私はガーデンシティに住んでいましたが、ちょうど同居していた日本人女性が帰国したばかり。受け入れることに問題はなかったのですが、少し躊躇してしまいました。というのは、前回、同居した時、百合子さんとお喋りがしたくて、やってくる日本人が多かったからです。日本語でお喋りをするので語学の勉強にはならないですし、来客の接待で疲れてしまいました。

 でも、離婚して行く先がなく、1976年5月の大学の進級試験に向けて勉強しなくてはならない百合子さんの頼みを、無下には出来ませんでした。

ADVERTISEMENT

辞書も持っていなかった

 ただ、2度目の同居生活では、来客は打って変わってひとりもありませんでしたね。代わりにあなたは夕方、外交官の夕食を作るアルバイトに出かけていました。

 日中は机に向かっていましたが「辞書を貸して」と言われ、驚きました。「辞書も持たずどうやって勉強していたんだろう」と。あなたは調べた単語に鉛筆で丸を付けていましたが、返してもらった辞書を開き、丸の付いた単語を見て「こんな言葉も知らなくて大丈夫かな」と、正直なところ思っていました。

 覚えているかと思いますが、エジプトでは口語と文語が分かれています。日常で使うのは口語ですが、インテリ層が通うカイロ大学の教科書や授業では文語が使われています。この文語はエジプト人ですら使えない人も多い。だからエジプト人でも4人に1人が留年すると言われています。それを日本人が習得するのは並大抵の努力では出来ません。

イメージ画像 写真:hoyano/イメージマート

 他の留学生からも、カイロ大学の授業がいかに難しいものであるか聞いていました。外国人は入学を融通して貰えても、進級試験では容赦なく落とされる。皆、大学に通いながら家庭教師を雇っていました。日本人で初めてカイロ大学を卒業した、大東文化大学名誉教授の小笠原良治さんは留学生の中では抜群の語学力だと言われましたが、彼でも卒業までに7年かかったほどでした。

 壁に「初心貫徹」と書いた紙を貼り、水を張った洗面器に足を浸して涼をとりながら、ひたすらノートに文字を書いていたこともありましたね。何を書いているのか聞くと、教科書を引き写しているだけで意味はわからない、図形のように丸暗記して書くんだと、あなたは言いました。そんな勉強で進級できるのか疑問に思いましたが、黙って見守っていました。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(カイロで共に暮らした友への手紙)。