サダト大統領夫人は40歳を過ぎていましたが、カイロ大学に学生として通っていました。百合子さんのお父さんは日本アラブ協会に「娘は夫人と同級生で顔見知りだ」と言って売り込んだのだと後に聞きました。
「だって、バレちゃうからね」
日本であなたがどう過ごしていたのか、私は知る由もありませんでした。でも11月半ば、カイロに戻ってきたあなたをひと目見て、とても驚きました。別人のように晴れやかな顔をしていたからです。そして荷ほどきをしながら、あなたは「これ見て」と新聞を差し出しました。
百合子さんの顔写真が大きく載っている記事を読み始め、私は驚きました。「カイロ大学文学部社会学科を日本人女性として初めて卒業した」などと紹介されていたからです(「サンケイ新聞」1976年10月22日)。
私は思わず尋ねました。
「そういうことにしちゃったの?」
あなたは、
「うん」
と、屈託なく言いましたね。
あなたは、冗談を言って人を喜ばせたり、驚かせたりすることが大好きだし、得意でした。だから悪気はなかったのかもしれません。私も注意することは出来ませんでした。落ち込んでいた姿を見ていましたし、まさか日本の総理候補になるような地位を築くことになるとは、夢にも思っていなかったからです。
驚いている私にこう続けました。
「私、日本に帰ることにした」
すべての憂いは去ったという安堵の気持ちと、自信に溢れて見えました。そしてあなたは翌日から帰国の準備を始めました。ある朝、ピラミッドに行くといって出ていったことも。
そして、明日は帰国するという別れの晩がやってきました。あなたは私の部屋に来て、手のひらに小さなケースを握らせて言いました。
「これ、プレゼント。絶対に人にあげたりしないでね」
模造真珠のブローチで、ケースの表には「JAPAN AIRLINES」。それに続く言葉を、私は今も、忘れることができません。あなたは言いました。
「私、日本に帰ったら本を書くつもり。でも、そこに北原さんのことは書かない。ごめんね。だって、バレちゃうからね」
それでいい? と、あなたに念押しをされるように言われ、私は頷くよりほかはありませんでした。
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本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(カイロで共に暮らした友への手紙)。
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