エミリア=ロマーニャの朝靄(あさもや)が、主人公の心象風景のように哀しみを湛(たた)えていた。エンツォ・フェラーリの1957年を切り取った映画『フェラーリ』は、そんな映像から始まる。
F1において、感情豊かにレースを見守るフェラーリ・ファンは、スクーデリアへの気持ちはほとんど信仰だと言う。悲喜交々(こもごも)あれど、享受しているのは深い喜びである。
そんなグランプリの現場から見たイメージと、この映画に描かれたエンツォ・フェラーリの姿は対照的だ。終始、喪失の冷たい湿度を感じるのは個人的な感傷だろうか。
息子の墓の前だけで感情を解放するエンツォ
前年の1956年、愛息アルフレード(愛称ディーノ)は病によって24歳の若さで逝去していた。白い花束を抱えたエンツォは毎日のようにディーノの墓を訪れ、話しかける。会いたい…と涙にくれる。
冷徹な“コメンダトーレ”が感情を解放するのは、亡き愛息の前だけだ。若くして父や兄を失ったエンツォにとって、ディーノは未来を分かち合う唯一の存在だった。
ドライバーの死に際しても感情を乱さない冷酷なエンツォを、映画は早い段階で、観る者に対して攻撃的なほど示してくる。しかし、愛息を失って1年も経たない、大きな空洞を抱えたままの心が、どう反応できただろう?
感情よりも先に社長としての理性が働いた──“代わりのドライバー”として呼ばれたのが、生き急ぐように人生を謳歌するスペインの貴族、アルフォンソ・デ・ポルターゴだった。
魅力的なアダム・ドライバーのエンツォ
アダム・ドライバーが演じるエンツォは、ある意味、私たちがイメージしてきたコメンダトーレより魅力的だ。私生活が描かれているおかげである。
妻であるラウラとの関係、第二次大戦中の工場で知り合ったリナ・ラルディとの関係。魅力的なのは、ふたりの女性の間で嘘をつけないエンツォが、意図せずして修羅場を回避できてしまうところ。
ここまでプライベートに入ると本当のところはわからないが、私たちはアダム・ドライバーの隙のない身だしなみと、指先まで無駄のない身のこなしに安堵する。
イタリアの伊達男のそれとは違う、メカニカルに美しいものを創造する“インジェニェーレ”の緻密さに魅力があるのだ。