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「勝手にハモらないでくれ!」しかもそんなにうまくない…なぜ人はカラオケで“自己中な行為”をしてしまうのか

『悪いことはなぜ楽しいのか』より #1

9時間前

genre : ニュース, 社会

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 知性についても同様のことが言えます。IQには高低差があります。しかし、それも知性の違いとしては、誤差のようなものです。コミュニケーションを取ったり、計算したりするということは、概ね誰にでもできます。ハサミを使って思った形に紙を切る、鉛筆で絵を描く、ということも、ほとんどすべての人が可能です。

 このように、すべての人間が平等――つまり同じくらいの力を持っている――ということは、そこに、絶対的な強者や絶対的な弱者が存在しない、ということを意味します。つまり、人々が互いに争い合ったら、戦いが拮抗してしまい、常に勝ち続けるなんて誰にもできない、ということです。

 もちろん、格闘技のようなルールのもとで戦ったら、話は別です。私は、リングの上では逆立ちしたってプロボクサーに敵いません。しかし、そうしたルールなしで戦うなら、筆者にも十分な勝機があります。そのボクサーの通り道に落とし穴を作ったり、料理に毒を盛ったりすればよいからです。

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 体力が劣っていれば知力で補うことができます。それも含めて、人間の能力は平等なのです。各自が工夫すれば自分よりも能力の優れた人を倒すことができます。だからこそ、プロボクサーだって、ボディガードをつけたり、セキュリティ対策のされたマンションに住んだりするわけです。

 かつて、昭和の大スターとして知られたプロレスラー、力道山という人がいました。彼は、日本の「強さ」を象徴する存在でしたが、街のチンピラに刺されて死んでしまいました。もしもリングの上で戦ったら、力道山はそのチンピラを簡単に倒すことができたでしょう。しかし、路上でそうならなかったのは、チンピラが包丁という武器を使ったから、つまり力道山よりも劣っているだろう自分の体力を、技術によって、知性によって補ったからです。

©Tomoharu_photographyイメージマート

 このように、どれだけ体力に優れた人でも、あるいは知性に優れた人でも、状況によっては誰かに殺されてしまうかもしれません。ところが、誰もが平等であるということは、別の困った問題を引き起してしまいます。それは、誰もが同じような存在だからこそ、同時に誰もが同じようなものを求める、ということです。人間は、だいたいみんな同じような身体の作りをしているからこそ、同じような食べ物を欲するし、同じような住環境を欲するのです。しかし、食べ物や住環境は、無限に存在するわけではありません。するとどうなるでしょうか。当然のことながら、限られた資源の奪い合いが起きてしまいます。

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