いずれにせよ、私たちはこうした自己中な行為を、よくないことだと見なしています。しかし人々は自己中になってしまう。そして自己中な人はとても楽しそう。それはなぜなのでしょうか。
自己中とは自分を中心に置くことです。しかし、程度の差はあれ、人間は誰であっても自分を中心にして生きています。自分の人生の主人公は自分であり、自分が楽しいと思うこと、自分にとって価値があることを追い求める――それはごく自然な発想です。それの何がいけないのでしょうか。
考えてみれば、このことは、あらゆる生物に共通する性格であるようにも思えます。どんな生物だって自分の存在を第一に考えています。生きるために食べ、自分の縄張りを作り、場合によっては外敵と戦うのです。そうした生物の行動はすべてが自己中です。言い換えるなら、自己中とは生物の本能のようなものなのです。
そうだとしたら、自己中がなぜ楽しいのかは、実はとても単純な理由で説明できるのかもしれません。すなわち、それが生物の本能だから、ということです。
平等の弊害
倫理学の世界では、自己中はエゴイズムと呼ばれる概念で説明することができます。「エゴ」とは「自我」を指す言葉です。常に自分を中心に考え、他者よりも自分を優先させること――それがエゴイズムの基本的な考え方です。
生物の本能はエゴイズムである――たしかにそうかもしれません。しかし、それなら、そこからは次のような別の疑問が立ち現れてきます。つまり、もしもそれが本能であるなら、なぜ私たちはそれを悪いものだと認識しているのか、ということです。
近世イギリスの哲学者であるトマス・ホッブズは、人間の本質をエゴイズムのうちに見いだしました。どんな人間だって自分が一番大事なのです。しかし、前述の通り、そんなことを言っていたら、善悪などという概念は説明できないようにも思えます。ところがホッブズは、このエゴイズムこそが、人間の倫理の基礎にあるのだ、と訴えます。
なぜ彼はそのように考えたのでしょうか。その思考を探るうえで鍵になるのは、彼が人間を、あくまでも生まれながらに平等な存在である、と考えたことです。
ここでいう「平等」とは、「平等な権利を持っている」ということではありません。「同じくらいの力を持っている」ということです。たとえば人間の身長は、どの人も、だいたい同じくらいです。もちろん、世の中には身長が高い人もいれば、低い人もいます。しかし、そうした個体差は大した違いではありません。たとえば身長に10倍の開きがあるということはありません。どんな人間だって、2メートル弱以下の身長に収まっているのであり、その意味では、だいたい同じくらいの身長なのです。