「ヤマト」は狭い地域の地名
では、「ヤマト」も同じように考えられるかというと、できない。統一王朝の国号を「ヤマト」と呼んだ最も古い確実な用例は、8世紀前半の『日本書紀』まで下るのである。
「ヤマト」が本来、かなり狭い地域の地名として出発した証拠は、いくつもある。
『万葉集』をはじめ、主に和歌において、「ヤマト」が「シキシマ」という枕詞を伴うことがあった。「磯城島」「式島」「志貴島」「之奇志麻」など様々な字で書かれたが、「シキシマのヤマトの国」で一つの成句となり、統一王朝の国号か奈良地方かを問わず、「ヤマトの国」を修飾した。後には「シキシマ」だけでそれらの「ヤマト」を意味し、たとえば〈和歌の道〉のことを「敷島の道」と呼ぶようになった。
この「シキシマ」は、崇神天皇の「師木島の大宮」(『古事記』)や、欽明天皇の「磯城島金刺宮」(『日本書紀』)など、王宮の所在地として現れる。欽明の王宮がそう呼ばれたのは「倭国磯城郡磯城島」にあったからで(『日本書紀』)、「シキシマ」は明らかに奈良地方の「ヤマト(中間層)」に含まれた磯城郡内の地名である。磯城郡は「ヤマト(最下層)」を含むから、「シキシマのヤマト」という結合はこの狭い地域でまず起こり、後に統一王朝の国号へと拡大したと見るほかない。
同じことが、「秋津島(秋津洲)」にもいえる。「秋津島」は統一王朝の国土全体や本州を指す美称で、国土全体や本州が「蜻蛉の臀呫(トンボの交尾の姿)」に似ているという神武天皇の感想が語源だと『日本書紀』に伝わる。しかし、孝安天皇が葛城の室という地(令制の大和国葛上郡牟婁郷。今の奈良県御所市室)に設けた王宮が「葛城室の秋津島の宮」と呼ばれたように(『古事記』『日本書紀』)、「秋津島」もやはり奈良地方の「ヤマト(中間層)」内部の、極めて狭い地域の地名だった。
これら「シキシマ」や「秋津島」が、狭い地域の地名から統一王朝の国号の代名詞となった理由は、枕詞などとして結びついていた「ヤマト」が拡大して、その道連れになった結果と考えるしかあるまい。それはつまり、「ヤマト」が本来この小さな地域名から出発したことを意味する。
では、「ヤマト」という地名そのものの最も古い用例は何か。それこそ、『魏志』倭人伝に見える3世紀前半の「邪馬台」にほかならない。つまり、卑弥呼の時代には、統一王朝全体を指す「倭」と、その内部の小国を指す「ヤマト」が、混じることなく別々に存在した。これが「倭」と「ヤマト」の初期状態だ。
本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(桃崎有一郎「画期的新説 邪馬台はヤマトである」)。